研究者・教育者としての私の歩み 本文へジャンプ
2019年度4年ゼミ生に話した内容に基づいた、研究者・教育者としての私の歩みです。

はじめに
 この度、専門ゼミで学生に伝えるために自分の研究者・教育者としての歩みを振り返って、まとめてみました。自分ではあまり意識したことはなかったのですが、これまで所属したそれぞれの組織や職場で行ってきたことが今に統合され、つながっていることがわかりました。
どの環境でも学ぶことばかりで、沢山の知的刺激と人の縁に恵まれたと思っています。関わりを持って下さった皆さまに感謝しつつ、何らかの形で参考にしていただくことができればと思い、ここに公開することにします。
以下は2019719日に、4年ゼミ生に話した内容に加筆したものです。


1.大学進学の動機
幼い頃から、私は「プロ」になりたくて仕方ありませんでした。何のプロかといわれても明確には答えられませんでしたが、とにかくプロに憧れ、何かのプロになることを目指していました。また好奇心旺盛だった私は、小学校6年生の寄せ書きには、他の子ども達が具体的になりたい仕事を書いているのに対し、自分だけが「あらゆることに挑戦したい」と書いたのを覚えています。
そんな私は、一通り、色々なことに取り組んできました。ピアノ、バドミントン、演劇、ブラスバンド、速記…。スポーツも音楽も芸術もかじってはみたものの、結局どれも身につきませんでした。でも、唯一続いているのは大学時代に入会した研究会で、そこで始めた「研究」でした。でも、その話はまた後で…。
そもそも私は、なぜ日本福祉大学に進学したのでしょうか。それは私の祖母がアルツハイマー病に罹ったからです。私が福祉を目指したのは、祖母と同じ病気の人が安心して過ごしてほしいこと、そして、熱心に介護をした母が歳をとった時に、充実した介護が受けられるようにしたいと強く思ったためです。それが私の原点となり、それ以降、福祉の道を歩き続けています。
しかし、当時は「福祉」はマイナーな領域で、進学校のため私立の福祉大学に進んだ前例がなく、最後まで教員達には反対されるなかで進学しました。「福祉に行くの?偉いね〜」が合言葉のような時代でした。


2.大学時代の学問への目覚め
とはいえ、大学に入った当初は何をどう学べば良いか全くわかりませんでした。そんななか、たまたま友人の誘いで入った「部落問題研究会」で社会に対する問題意識を培っていきました。
差別や偏見とは何か、貧困とは何か、暴力とは何か、経済発展とは何か、社会問題とは何か…。私の目の前には、これまで全く触れたことのない世界が広がっていました。
部落(同和地区)のフィールドワーク、分厚い本を何冊も読む仲間たちとの毎週の学習会、各地の研究集会への参加、何本も論文を書く毎日。でも、勉強していなかったら批判される環境のなかで「なにくそ!」と闘志を燃やしながら、前回の学習会で話せなかったことを挽回するために、次回の学習会では沢山勉強していったことを覚えています。
そのうちサークルの会長になり、社会への声明も何度か出したりもしました。
こんなかんじでサークル活動の時間は沢山あったのですが、肝心の講義にはほとんど出席せず、社会福祉のことが全く分からない状態でした。気がついたら3年生も終わりかけで「どうしよう…」となった時に、急に社会に出るのが怖くなりました。もっと勉強しなければ…。
幸い我が家は高学歴家庭で、父親と兄が大学院に進学していたため、思い切って私も大学院に行きたいと親に相談したところ、「女子にもこれからは学問が大切だ」と理解してもらい、進学の許可を得ました。
しかし大変なのはその後でした。ほとんど社会福祉は勉強していないものの、勉強しないと大学院には受かりません。専門の勉強、英語が2つ、研究計画、口頭試問。4年生の5月くらいから、とにかく家に籠って勉強を始めました。挫けそうになったときには、友人からの「あなたの今の仕事は勉強をすることだから」の言葉を思いだし、励まされながら頑張りました。その甲斐あってか、なんとか大学院に滑り込むことができて一安心でした。
卒論は「高齢者福祉施設の社会化」についてで、ゼミで最初に書き上げ、在学中に実習にも3回行きました。


3.大学院修士課程での修行の日々
本来は5人定員だった大学院修士課程には、入学を決めた4人のうち1人中退したため、私を入れて3人しか残りませんでした。そのため、大学院では修行の日々を送った気がします。
1人の教員の授業に出る院生は2人か3人。教員によっては、毎週レポートを課すため、毎週何本かのレポートを書いていく状態でした。
さらに私が師事した教員は研究作法に厳しい人で、書いた論文を徹底的に赤ペン添削し、修士論文が佳境を迎える時には「翌日までになおしてこい!」という指示を受けることもありました。そのため、半べそをかきながら徹夜してなおす日もありました。そして、認知症家族介護者への支援をテーマにした修士論文を書き上げました。
このように、修士課程では研究とは何かというイロハについて教え込まれました。それでも、私にとっては知らなかった学問の世界が一気に広がり、学ぶことの面白さや知らないことを知ることの醍醐味を味わった日々でもありました。「ああ、いつか私はこの大学で○○先生のような教員になれたらいいなぁ」と大学院の女性教員を見ながら、この頃の自分にとっては見果てぬ夢を抱いていました。


4.最初の職場:総合病院医療ソーシャルワーカー

大学院修了後は、研究会仲間の紹介で、岐阜県にある総合病院の医療ソーシャルワーカーとして、一人職場に赴任しました。大学院を出たものの、右も左もわからない病院という世界で、就任式の最中からポケベルで呼び出され、あちこち飛び回る日々が始まりました。
生活保護患者、馬の世話係の患者、アルコール依存症患者、暴力団関係者、虐待児童、さらに遺体に付き添わされたこと、精神疾患患者からのプロポーズ、事務長との対立、何人もの死…数え上げたらきりがないが深く濃い日々でした。2年目に増員し2人ワーカーになり、今度は後輩指導に頭を使う日々が訪れます。それでも、本当にいろいろな体験をさせてもらえた4年半でした。 そしてこの時、医療ソーシャルワーカーという仕事は本当に魅力的で面白い仕事だということを実感していくのです。またこの時に、岐阜県病院協会の学会で、2年連続で病院での取り組みを発表しました。最初は医療相談部門がなかったので、学会に申し入れてそのような部門を新設してもらっての発表でした。
また、この頃には隣の愛知県の2つの研究会に参加させてもらい、月に2回くらいのペースで事例検討を行ったり、ピアスーパービジョンを行っていました。その頃の仲間は今では皆ベテランになり、県医療ソーシャルワーカー協会役員や大学教員等を行っています。
さらにその間、20代半ばで岐阜県社会福祉士会理事の調査研究部長として、社会福祉士の実態調査に取り組みました。研究誌を出版したり、会議で喧々諤々話すこともありました。また、歴史的な瞬間に立ち会いたいという一心で、みぞれ降る八王子で開かれた日本社会福祉士会の設立総会にも出席しました。
その後、縁あって東京に移住することになるのです。


.2つ目の職場:老人保健施設

2つ目の職場は、東京都足立区にある老人保健施設の初代相談員でした。この施設は地域医療で有名な法人が立ち上げたもので、立ち上げの前後に勤務しました。
これまで地域医療に触れたことがなく、かつ、土地勘がない私にとって、そこでの仕事は難儀しました。かなり力のある訪問看護師が活躍している場所であり、老健への入所判定会議の資料を作成する際に、あまりにも私の面接での「聞きもれ」が多いので、毎週の会議前に2人の訪問看護師長に資料を見せてダメ出しをくらいました。そこで了解をもらわないと入所判定会議に資料が提出できないため、了解をもらった時は深い安堵感を味わいました。そのような機会が毎週毎週訪れます。かなりのストレスを抱えながらも、地域医療と施設という場を心と身体に刻んでいきました。
さらに月に何十時間も残業があり、毎日、家と職場の往復でした。そのため、私の頭のどこかで常に「このままここにいると潰れてしまう」という警鐘が鳴り響いていました。
勉強とはほど遠い環境にあったために、これではダメだと当時東京都医療ソーシャルワーカー協会で行っていた、グループスーパービジョンに参加することにしました。しかし、その頃は全く自分の実践の評価ができない状況だったと思います。自分で出した「成功事例」と思っていた事例は、他の人から見ると「なぜこれが成功なの?」という状況で、完全にコントロールを失っていたと言わざるを得ません。輪をかけて、実践のなかで利用者に対して冷たく接する自分に気がつく機会があり、「自分はバーンアウトしている」ことを自覚することになりました。


6.3つ目の職場:短期大学保育士養成課程

そんな折、今は亡き大学院時代の教員から「短大教員の話があるが行ってみないか」と声をかけられました。病院勤務時代からホームヘルパー講座の講師を定期的に行っており、教えることの面白さを感じていたことと、バーンアウトしている自分に気が付いたことにより、半分は期待感を持ちもう半分は逃げるような形で、1年半で老人保健施設を去り、短大保育士養成課程の教員になりました。
しかしその世界もそんなに甘いものではないことを、もう少し後になって知ることとなります。就職面接での事務長からの「児童福祉論、養護原理、養護内容は教えられますか?」の問いに、その時初めて聞いた講義名にも関わらず自身満々で「はい!」と言ったのを覚えています。が、その後の苦労は大変なものだったことは言うまでもありません。
とにかく、児童福祉施設に見学に行きまくり、本を読みまくり、テレビ番組を録画しまくりました。授業ができるようにしなければならないからです。ただ、当時のVHSのビデオテープは、後に使えなくなるので何十タイトルのテープを破棄しました。
また、それまで身を置いていた実践の世界と大学の世界とでは、動き方のルールがまるで異なります。慣れない環境のなかで失敗をして、学科会議の際に全員の前で学科長から大声で怒鳴られることもありました。
それでも、少しずつではありますが研究も行ってきました。2年目になると、やはり短大の教員になったのだから、博士号は取得しなければならない、その前に博士課程に行く必要があると、また勉強漬けの日々が始まりました。
最初の難関は英語の長文読解でした。博士課程入試には、どこの大学でも英語がつきもので、場合によっては第二外国語が課せられることもあります。しかし、大学入試からすでに10年以上経過し、英語論文から遠ざかっていた私にとって、長文読解はやっかいな課題でした。そこで、英会話教室の個人レッスンに通い、会話ではなく論文読解をオーダーして取り組むことにしました。とにかく、1年間で英語読解力をつけなければと思って、取り組みました。
英語のみならず、専門教科の勉強と研究計画書についても、ひたすら毎日取り組みました。専門教科の勉強は、受験する大学院の教員が書いた本を毎日1冊ずつ読み、出題傾向を把握することにつとめました。やがて1年間の英文読解が終了し、それなりの学力を習得することができました。
そんなかんじで1年間かけて勉強した結果、母校の大学院博士課程に合格し、私には数十人の院生代表として、壇上で「誓いの言葉」を読み上げる役割が与えられました。その時は「研究能力を高めたい」という趣旨の内容を述べた気がします。
大学院博士課程では、「学生のエンパワーメントを促すソーシャルワーク教育」のテーマで、博士論文に取り組みました。しかし、その後に赴任する国立大学の都合で、1年半で大学院を退学せざるを得なくなったのです。とても残念でしたが、背に腹はかえられず大学院を退学しました。この時、半年ずつ収めればよい学費を思い切って1年分収めたものの、退学後の半年分の45万円は戻ってきませんでした。随分と高い授業料を払ったものです…。


7.4つ目の職場:国立大学

国立大学の教員として赴任していた4年間は、今までで、最ものびのびと研究能力や教育能力を伸ばせた時期だったと思っています。
この頃に取り組んだ研究は「学生のエンパワーメントを促すソーシャルワーク教育」と同時に、「ソーシャルワーカーの成長過程」でした。当時、ソーシャルワーカーを対象にして成長過程を探る研究はまだ行われていませんでした。そのため、先行研究が豊富な教師や看護師、経営学から学び、その知見を借りてきて本を書きました。
また、かねてから関心があったソーシャルワーク演習について、独学だけでは知見が広がらなかったため、仲間と一緒にソーシャルワーク演習研究会を立ち上げ、教員同士のピアサポートの場を創りました。それ以降、このような研究会は3回立ち上げて運営してきています。
この頃になると、たいていの集まりでは私が最も年下のため、年上の人をまとめる役割をとらざるを得ず、研究の面白さと同時に共同研究の大変さも知りました。でも、今思うと先輩たちの胸を借りて育ててもらったのだと思っています。
そしてこの頃、2冊の本を世に出しました。私が立ち上げた研究会での演習教材をまとめた『社会福祉援助技術演習ワークブック』と、私の研究テーマを知ってもらうのに役立った『成長するソーシャルワーカー』です。どちらも思い入れがある本になりました。


  


 また、この職場では、少人数で深い議論を行ったりゼミ合宿で秋田県()鷹巣町や関西方面のフィールドワークに行ったり、学生達を山谷のフィールドワークに連れて行ったりもしました。社会福祉士コースには教員が2人しかいなかったため、とにかく何でも行いました。自分の限界をつくると、そこまでしか学生に提供できないという気持ちで取り組んでいた気がします。
しかし楽しいことばかりではなく、人間関係で悩まされることも多々ありました。そのときのモットーは、「どんな環境に置かれても、自分自身の研究能力は磨いていく。とにかく研究だけは続けていく」というものでした。
当時、大学院に所属せず指導教員がいなかった自分にとって、研究能力を伸ばすにはどうすれば良いか悩みながらも、毎年1・2本の研究論文を学会誌に投稿し査読を受けること、全国学会で発表し続けることを自らに課しました。査読結果はほとんどが「修正後再査読」であり、時には「不採用」もありました。しかしそれ自体が重要な指導の場だったと思っています。こんな「対外試合」を繰り返し、これまでに20本近くの査読論文を世に出すことができました。
しかし、私が所属していたコースが閉鎖されることになり、幼児教育講座への移籍話が出てきました。その頃、東京社会福祉士会の事務局長や社会福祉士を対象とした研究を行っていた私にとって、再び保育士養成に携わるかどうかは、自らのアイデンティティが問われる大きな転機でした。このままその大学に残り保育士養成に携わるのか、新天地を求めて動き出すのか…。
そんなジレンマを感じていたある日、たまたま見た研究者求人サイトで、ある大学の援助技術論の教員募集が目にとまりました。その大学は旧制大学であり、社会福祉系でも老舗の一つ。傲慢なことに、その時に「これは私のためにある求人だ」とさえ思いました。そして、数十人のなかから選んでもらい、無事にその大学の社会福祉学部に転職し、そこでの教員生活をスタートさせたのです。


.5つ目の職場:私立大学社会福祉学部

その私立大学には13年間赴任し、様々な経験をしました。
まず、何人もの医療ソーシャルワーカーを養成し世に出して、いくつかの病院とのつながりができました。多い時にはゼミ生16人中9人が医療ソーシャルワーカーになり、各地で活躍しています。
また、2年に一度の北欧視察を実施し、北欧3か国の医療ソーシャルワーカーの調査を行ってきました。今年の夏には最後の国であるデンマークの医療ソーシャルワーカーに調査を行う予定です。これまで10数回北欧に渡航し、グループ視察のノウハウを身につけました。
そして自分にとって最も印象深かったのは、1年間のサバティカルを取得して博士号を取得したことです。研究休暇では、コンスタントに毎日8時間の論文執筆を行い、人生でとても充実した1年間を過ごしました。博士号取得の際には、「自分で自分の人生に華を添えられたなぁ」と思ったものです。
また、学会理事などの社会的役割が増加し、私の名前が珍しいこともあり、多くの人に名前を知ってもらうこともできました。
そして大学では学部長補佐や学科主任にも就任し、楽しいことも苦しいことも経験させてもらいました。
この頃の研究は「医療ソーシャルワーカーの実践能力変容過程」で、ソーシャルワーカーになった後にどのように実践能力を育て変えていくのか、そのきっかけは何かを研究しました。そこでも何冊かの本を出版しました。『成長するソーシャルワーカー』の続編である『キャリアを紡ぐソーシャルワーカー』、『保育士のためのソーシャルワーク』、高校福祉科卒業生のキャリア発達を追った『高校福祉科卒業生のライフコース』、そして博士論文をまとめた単著『医療ソーシャルワーカーの成長への道のり』です。


   


この頃から、「○○法」という研究方法をきちんと身につけ自分が使えることと同時に、大学院生の指導にも生かさなければという思いがありました。そのため、修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ、KJ法、統計処理について、それぞれお金を払って習いに行き、今に至るまで継続しています。
さらに、この頃から他者の研究を評価する機会を得ました。現在6つの学会誌・研究誌の査読委員を行っており、教育的指導を行うにはどうすれば良いかを考える機会を持っています。また、これまでに何百人もの研究計画書を見てきたため、特定の研究領域に限らず一目で研究計画書や論文の構造が把握でき、修正点や改善点がわかる力を身につけました。この経験は、大学院生の研究指導に携わるうえで生きています。


.そして最後の職場:日本福祉大学

前の大学に在籍しているとき、3回にわたり日本福祉大学よりヘッドハンティングのオファーをされていました。しかし、ことごとくタイミングが合わなかったのです。1回目はサバティカルの時。休暇が終わると「御礼奉公」として数年間、その職場で働くことが暗黙の義務となっていますので、当然断りました。2回目は管理職に就任する時。これから管理職として働く私にとって、他の組織に移ることはとても考えられませんでした。しかし、いつかは母校に帰りたいという思いは心の奥に保っていました。そして3回目のオファーがあった時に、異動する決心をしました。職場は違っても研究も教育もできる、また学生達と楽しい時間が共有できる、と期待をもって赴任しました。
そしてこの間、2冊の本を執筆・作成しました。1冊は、私が主催してきたソーシャルワーク演習研究会で実施した、演習教材をまとめた『学生・教員・実践者のためのソーシャルワーク演習』です。もう1冊は、理事を行っているソーシャルワーク学会で全体のとりまとめを行った『ソーシャルワーカーのための研究ガイドブック』です。
また、この頃行った「ソーシャルワーカーの離職の研究」については、その本を出版するための原稿を現在執筆しているところです。


 


 日本福祉大学に移ってからは、濃厚で充実した日々を送っています。なんといっても研究環境が整っており、現在、共同研究の場だけでも4つあります。
一つは大学院修士時代の恩師が主催する医療福祉研究塾です。毎月1回集まり、先生の本の輪読と参加者が取り組んでいる研究報告が行われます。看護職と福祉職、大学教員が主な参加者で、少し緊張感のある雰囲気のなかで幅広いテーマについて触れる機会があります。
二つ目は、大学が受託している地域包括ケアについての研究会です。私は地域包括ケアで活用できるアセスメントシートの開発グループに所属しています。これまた、全学の様々な研究分野の専門家が集まる会で、12の分科会が多様性を持っているため(子ども支援、就労支援、災害支援等々)、これまで触れたことがない分野の内実を知ることができています。
三つ目は、科研費の研究でスーパービジョンに生かすための実践能力指標を開発しています。私が所属するユニットは、気が置けない人達3人で行うものなので、肩の力を抜いて取り組んでいます。ここでは量的調査を行い、今後、分析を行っていく予定です。
そして四つ目は、中部ブロックで立ち上げた演習実習研究会です。私にとっては3回目の研究会立ち上げとなります。ちょうど今、演習や実習カリキュラム改正の時期に差し掛かったので、模擬演習や情報交換を行いながら進めているところです。


10.現在取り組んでいる研究テーマ

以下は、私が現在取り組んでいる研究テーマです。
@医療ソーシャルワーカーの業務継続中断を規定する個人と環境との相互作用に関する研究
A固有性・専門性の提示を目ざすベテラン医療ソーシャルワーカーの実践行動と根拠の解明
Bソーシャルワーク演習教育のあり方についての研究
Cヒューマンケアにおける包括的重層的スーパービジョンシステムの構築に関する研究
D北欧の医療ソーシャルワーカーの仕事
Eソーシャルワーカーの研究支援


11.現在取り組んでいる社会的活動

以下は、私が現在取り組んでいる学会や社会的活動です。
@日本学術会議連携会員(社会福祉学分科会、法医学分科会)
A日本ソーシャルワーク学会理事
B日本社会福祉教育学会理事
C日本社会福祉学会 若手・女性研究者の支援検討委員
D認定社会福祉士認証・認定機構スーパービジョン検討委員
E6つの学会誌・研究誌の査読委員
F国から委託された複数の仕事
            +
3つの県医療ソーシャルワーカー協会でのコンサルタント、全国各地での講演、学会等でのシンポジストや助言者


12.これまでの自分の歩みを振り返って

 研究者としては道半ばなのですが、とりあえず中間報告の位置づけで振り返ってみました。すると、これまで所属した6箇所の職場全てが、今の私にとって意味があることがわかりました。
 1箇所目の職場である総合病院では、医療ソーシャルワーカーの仕事の面白さを実感しました。また、社会人として働くとはどのようなことかを身をもって体験し、病院という組織を知る機会を得ました。
 2箇所目の老人保健施設では、地域を見る視点を与えられると同時に、仕事の厳しさを実感しました。また、バーンアウトを体験したことにより、そうならないような環境を整える大切さを痛感しました。
 3箇所目の短期大学では、大学教員の仕事とはどのようなことかを学ぶと同時に、これまで触れたことのない児童福祉領域に触れることができました。また、大学院博士課程への進学を機に、研究の道に足を踏み入れることになり研究者としての基盤をつくった時期でもありました。
 4箇所目の国立大学では、幅広く様々なことに取り組み、研究論文も多数執筆するなかで、研究者としての知見を広げた時期でもありました。また、対外試合を繰り返すなかで、研究能力を磨くことができました。
 5箇所目の私立大学では、博士論文を執筆するなかで研究を深めると同時に、多様な経験を行い教育者としての経験値も広げました。また短期間ではありますが、管理業務に携わる経験をとおして、組織マネジメントに触れる機会も持てました。
 そして6箇所目の日本福祉大学では、自分も学びつつ今度は大学院生や現場の方に教えることに取り組んでいます。大学院の頃みた「いつかは私もこの大学の教員に…」という夢が実現しました。そのため、もう他の大学に移ることはありません。ここが私にとって最後の職場になります。


13.最後に:学生の皆さんへのメッセージ

今、私が大切にしていることは「自由になること」「変化すること」「続けること」「きちんと向き合うこと」です。いつも、悔いのないように生きたいと思ってやってきました。
また、「人から何かを与えられるのを待つのではなく、自分から動く」「無ければ創れ」をモットーに取り組んできました。
そして私は、「学ぶこと」により人生を切り開いてきたと思っています。大学時代に「自分の限界まで学ぶんだ」と仲間と話しあい、わからない本をわからないなりにも読んできたこと、少し背伸びしながら議論にくらいついてきたことは良い思い出です。
でも、まだまだ研究者・教育者としての私の歩みは続きます。自分自身が納得のいく研究・教育を行う、少しでも多くの人が研究に取り組めるようにサポートする、ソーシャルワーカーの仕事が素晴らしいものであり、多くの人にその魅力を知ってもらえるように、研究者として尽力する…。数え上げたらきりがありませんが、今はまだ夢の途中です。
一生は一度きり。とことん興味があることを追求し、悔いのない時間を過ごしてほしいと願っています。
 ご清聴、ありがとうございました!





研究の部屋に戻る