博士号取得への道 本文へジャンプ
ここでは、長い長い博士号取得への道のりを書き綴っていきます。


   嵐の後で思うこと〜これから博士号取得に向けて踏み出す人へ

            
  このエッセイの最後に、これから博士号取得に向けて踏み出す人に向けたアドバイス的なものを、4点にわたってまとめておきます。
 まず1点目は、課程か論文かのどちらで博士号を取得しようかと考えている人がいるならば、迷わず「条件が許すならば、絶対に課程博士にするべきである」と言いたいです。というのは、課程では指導教員から定期的に指導が受けられ研究能力が向上する機会に恵まれ、かつ中間報告会という場もあるため、緊張感が持続できるからです。また、一般的には論文博士に比べ課程博士のほうが執筆資格要件は易しいため、博士号取得に早く近づけるからです。ただ、なかには私のように所属先の条件によって課程への在籍がかなわないことがあるかもしれません。その際でも、当該大学院の資格要件をよく調べ、できるかぎり自分の実状に見合った大学院を選ぶべきだと考えます。
 ただし、経済的な面からいえば、課程博士よりも論文博士の方が圧倒的に安いのは事実です。課程博士は、T大学の場合は年間50万円程の学費を支払う必要があるのですが(学費は大学院によって異なります)、資料3にあるように論文博士の場合には審査料22万円のみでよいからです。

 次に2点目として、自分がどのようなスケジュールで博士論文を執筆するのかを十分に吟味し、スケジュール調整を行う必要がある点です。私の場合、どこを基点に博士論文のスタートと捉えたらよいのか、迷うところです。T大学の研究生になった時点だとすると、5年間を費やしています。そのなかで、とても幸運だったのは4年目に研究休暇をもらったことです。それまでの3年間でデータ収集と、第一次の分析は終わっており、研究休暇期間には思う存分、執筆ができました。そのため、執筆を始めてから2年間で取得できたのは、幸運でした。
 博士論文は1,2年では書き上げることができません。T大学にも休学を含めて8年在籍して、学位を取得した人が何人かいます。特に、最後の1年間は論文の仕上げと審査・修正が求められるため、とりわけ集中した時間が必要となるでしょう。具体的には、ほぼ土日を終日論文執筆に当て、平日もコンスタントに数時間ずつ執筆し、ラストスパートでは睡眠時間を削ってずっと机にかじりつく、というイメージです。そのため、それぞれの人に仕事やプライベートでの予定があるため、どの時期に照準を合わせて取り組むのかは、よく考える必要があるでしょう。

 3点目として、所属大学院のシステムを把握してから選ぶ必要があることです。特に、そこで博士号をどれくらい出しているのか、どのような要件が課されているのかの情報は必須だと思います。指導体制の整備は大学によって大きな差があります。大学までの距離やブランドで選ぶよりも、その大学院の実質的な中味が大事だと考えます。
指導教員については、もちろん大前提として自分の論文の専門分野が指導できることがありますが、それに加えてきめ細かく指導してくれるかどうか、人として誠実かどうか、自分と相性が合うかどうかが問われてくるといえるでしょう。ただし、これを事前に知るには困難で、「運試し」の面もないとはいえません。そのため、できるだけその指導教員に師事している院生から直接話を聞くなど、事前に情報を集めた方がよいでしょう。その際、その教員の退職までの期間や、他の教員との関係性も情報収集した方がよいと思います。残念なことに、私の周りでは途中で教員の死亡や他大学への転職により「指導難民」となった例がありました。

 そして4点目は、とにかく常に学位取得への情熱(執念)を持ち続けることです。博士号は、今や研究者としての集大成ではなく、スタートラインの品質保証の意味合いに変わってきているため、福祉学界でも学位取得がスタンダードになってきています。私は、最初の博士課程入学からの13年間、ずっと博士号取得を目指してきました。が、種々の理由から課程を退学せざるをえなくなり、論文博士しか道は残されていませんでした。それでも、ずっと取得への情熱を持ち続けてきました。
 学位を取得するのは一朝一夕とはいかず、本当に長い道のりです。フルマラソンを5回走ってもまだ届かないくらい、はるか遠くにゴールがあります。それでも、今日のいくらかの作業がそのゴールに近づくものであると確信し、絶対にあきらめないことが大切だと思います。努力をすれば必ず報われるわけではありませんが、努力をしなければ報われません。そのことを身をもって感じた数年間でした。
 そして、全てをやりきってゴールを切った時の達成感は、このうえないものがあります。「達成感を味わうために人事を尽くす。そして天命を待つ」。それがこの間感じた、最大の教訓かもしれません。
 以下、これまでの道のりを表としてまとめておきます。


資料1:論文博士取得へのスケジュール
時期
行ったこと
詳細
2007年度
・指導教員の依頼
・7月からゼミへオブザーバー出席
・研究テーマの検討
・社会福祉実践理論学会(現日本ソーシャルワーク学会)の懇親会の席で、T大学S先生に指導を依頼し承諾される。
・毎週土曜日のゼミへ出席する。それ以降、半期に1度ずつゼミで研究の進捗状況についてプレゼンを行う。
 ・研究テーマの検討を始める。
2008年度
・T大学研究生1年目
・研究テーマの決定
・研究計画の策定
・先行研究のレビュー
・M-GTA初講習受講
・科研費申請
・それまで実施していたソーシャルワーカーの力量形成過程をテーマとすることを決める。その後、「医療ソーシャルワーカーのコンピテンス変容過程の質的研究」にテーマを変える。
・内外の先行研究のレビュー開始。作業仮説の策定。
・K大学にて、M-GTAの初講習を受講する。その後、M-GTA研究会に入会。
2009年度
・T大学研究生2年目
・科研費獲得
・調査対象者の選定と依頼
・調査実施・データ整理・分析
・8県のベテランと中堅MSWに県協会役員や知人を介して調査依頼を行う。調査の際には承諾書を書いてもらい、科研費からの謝金を渡す。
・調査データは自分でテープ起こしを行う
・スーパービジョンを受けながら、データ分析を始める。
2010年度
・ゼミへのオブザーバー出席
・調査実施・データ整理・分析
・T大学特別研究員の依頼
・査読論文1本目を執筆・投稿・採用『社会福祉学』
・計21人の調査を実施し、データ分析を終了させる。

・それに基づき、MSWの新人期から中堅期にかけての実践能力変容過程の論文を執筆し投稿。修正後再査読となり、修正後再投稿し、採用。
2011年度
・研究休暇期間にT大学特別研究員となる
・論文執筆
・毎日7、8時間、データに基づき論文を執筆
・査読論文2本目を執筆・投稿・再査読を経て採用『ソーシャルワーク学会誌』
・査読論文を執筆・投稿・不採用
・スーパービジョンを受けて、M-GTAの分析の仕方を見直す
・査読論文3本目を執筆・投稿『ソーシャルワーク研究』
2012年度
・執筆資格要件クリア
・論文の予備審査
・論文の本審査
・公聴会と口頭試問
・査読論文3本目が修正を経て採用
・5月より予備審査開始(6ヶ月以内に結論を出す必要あり)
・9月に予備審査の結果が出て大幅に修正
・修正後の論文の指導会
・本審査にむけた外部審査員の依頼
・12月3日、予備審査のリミット→本審査へ
・12月23日 第1回本審査・修正・1月7日に再提出
・1月18日 第2回本審査・修正・1月31日に再提出
・2月6日〜 メールによる第3回本審査・修正・修正の対比表を審査員に送付
・公聴会の準備
・2月12日 黒表紙を製本所に依頼、その前に仮製本を作成
・2月15日 公聴会(第4回本審査)と口頭試問(第5回本審査)
・2月18日 研究科委員会で承認
・2月22日 全学の研究科委員長会議で承認


資料2:博士号取得の過程で必要な物・こと
必要な物・こと
その内訳
   人脈
・指導教員。
・調査の依頼のための現場の仲介者。
・調査協力者 全国の21人。
・M-GTAのスーパーバイザー。
  指導以外の研究内容へ
  の助言や刺激
・大学院ゼミへのオブザーバー参加。
・M-GTA研究会への参加。
・学会での発表。
・査読論文の投稿。
  本や論文
・本は科研費で購入。
・論文は国立国会図書館から取り寄せた他、英語論文はT大学図書館の電子ジャーナルを大いに活用
  
  パソコンと周辺機器
・文書作成ソフトの他にグラフィックソフトを使用。
・用紙とインクは常にストック。
・途中でインクジェットからレーザープリンターに変更したことで、効率アップ。
  小回りがきく製本所
・最終版の提出までの間は、主に1日仕上げのデジタルコンビニで製本(4回)。あと1回は自分で印刷してファイルに綴じるも、製本所を使った方が早くて綺麗に仕上がることがわかる。
・黒表紙は中2日で行ってくれる製本所に依頼。
  キャスター付きキャリー
  バッグ
・修正ごとに論文6冊を大学へ提出。1冊が260頁のため、6冊はかなり重いので、キャスター付きキャリーバッグは必需品。
・公聴会の日は資料も多いため、前日にそれらを大学の最寄り駅コインロッカーに預ける。
  必要に応じて最低3日
  間は集中できる日程の
  確保
  &少し無理できる体力
・急な修正要求に対応するため、最低3日間は集中できる日程の確保が望ましい。集中とは、朝起きてから夜寝るまで論文以外のことはしない日のこと。
・そのため、予定していた研究会を2回、遊びを3回キャンセルし、年末年始の予定を返上した。1月1日に修正が終わったため、年末年始で休んだのは1月2日のみ。
・最後1週間の平均睡眠時間は3、4時間。でも、疲れは感じなかった。
&終わってからも数日は不眠。


資料3:主にかかった費用
かかった費用
その内訳
   調査交通費・謝金
・全国各地へ出向いたため交通費は数十万円、謝金は1人1万円→科研費より支出
  研究生費用とT大学
   への交通費
・1年13万円×2年間
・トータル数十回の交通費(持ち運ぶ論文が重いときにはタクシーを活用)
  スーパービジョン費用
・1回2万円+スーパーバイザーの所属大学までの交通費を回数分
  論文審査料
・手続き料2万円+審査料20万円
  製本費
・仮製本1回1万円×5回
・黒表紙1冊4,500円×9冊
  文具代
・インクカートリッジ 約3,500円×15本程
・用紙 沢山
・他の文房具代 赤ペン・ファイル等の費用





                                                            完


                         






   道のり〜その9 口頭試問と公聴会

 2月15日は、久しぶりに沢山眠ることができました。朝起きてスッキリし、「計量が終わったボクサーみたいだな」と感じたことを覚えています。この日の午前中は空いていたので、最終確認の意味で3時間かけて論文に目を通しました。途中、いくらかの誤字が見つかったため、製本した論文に紙を貼って修正しながらの通読でした。
 そして昼前に家を出て、講演先に向かい14時からの講演に臨みました。講演はいつものように「全員に届きますように」と念じてから行ったため、最後には拍手をもらい、無事に終えることができました。その時の謝礼金が1時間半で4万円という過分なもので、「黒表紙の製本費用45,000円が捻出できたなぁ」と、助かった思いで一杯でした。そして講演を終えると、すぐさまT大学に向かったのです。途中で、前日に預けた大学の最寄り駅のコインロッカーで荷物をピックアップしました。

17時20分頃到着したら、まだ一人目のMさんの公聴会は始まっていませんでした。17時半から1時間の公聴会があり、その後、別室での口頭試問という流れになっていました。そして、Mさんの公聴会が始まりました。
そして19時になり、とうとう自分の順番がまわってきました。3回程声に出して練習してきたため、発表自体は緊張することがありませんでした。その後の質疑応答では、引用文献の字が間違っている指摘があった後に、今回の結果を理論的コード化をするとすればどのようなものになるのか、という質問が出されました。が、他の方法では分析していないので、考えたことがない旨を答えました。その後、院生から資料の出典についての問い合わせがありました。
そして副査、主査のコメントです。最初の先生は、私の情熱を掬う発言をしてくださいました。次の先生からは、私のテーマは修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチで分析するには大きすぎるのではないか、ということに今日気がついたという発言が出ました。そして最後の先生からは、例によって「質問はないけれども議論をしましょう」と切り出されました。本審査の際には、いつもこの口上で議論をふっかけられていたのでした。そして、答えられる部分はその場で答え、答えられない部分については今後の課題であると伝えました。最後はS先生のコメントです。一通りまとまった研究であること、少数例でどこまで一般化できるかという問題があることが指摘されました。
そんな感じで1時間の公聴会は終了し、その後、別室で口頭試問が行われていました。といっても、もう新しい何かを要求されるというよりも、この後、この研究をどうしていくのかという話になりました。2人の先生からは、医療ソーシャルワーカー協会と協働で量的調査を行ったら良いのではないか、という提案がなされました。最後に、S先生から私に「何か言いたいことはないか」と問われたため、こんなことを言いました。「コメントをいただき、修正する度に論文が良くなるのを実感し、研究の醍醐味を感じました。良い時間を過ごさせていただき、ありがとうございました」と。これはかなりやせ我慢、つまり私なりの矜持が入っており、辛かったということを顔には出さず、最後は余裕を見せたかったのです。その後、教員だけでの審査が行われました。
 公聴会と口頭試問を終えた時の気分は「人事を尽くして天命を待つ」というもので、一点の曇りも後悔もありませんでした。研究休暇を終えた時の爽快感と同じく、「完全燃焼した」というやりきった感じだけがありました。

 この公聴会後に、Mさんともう一人の院生とで、近くのファミリーレストランで打ち上げを行いました。といってもノンアルコールビールとわずかなつまみを頼んだだけですが…。でも、乾杯の後で飲んだノンアルコールビールの味は、本当に、本当に美味しかったです。
Mさんもまだ論文が終わったという実感が湧かないらしく、最初は眉間にしわを寄せていたのですが、そのうちジワジワと実感が湧いてきたのか、にこにこ笑顔になりました。話を聞いていくうちに、私とMさんは同じ主査のもと、同じスケジュールで公聴会の日を迎えたことがわかりました。そのため、何度かあった急な論文提出に関するスケジュール変更も、同じように経験していました。お互いに「自分の出来が悪いからスケジュールが変わったのかと思った。もっと早くに連絡を取っていれば、安心できたのにね」と言いつつ、22時の夜行列車で郷里に帰る彼を東京駅までタクシーで送りました。
 その後、無事に自宅に辿り着きました。タクシーから降りた自宅前から見える夜のスカイツリーのイルミネーションが、とても綺麗だったのを覚えています。長い、長い1日でした。

その数日後、久しぶりに念願の京都に非公開文化財の見学に行きました。とても寒い見学の終盤、バスに戻ったらS先生からのメールが届いていました。タイトルは「サクラサク」でした。「本日、開催されました研究科委員会におきまして、保正さんの乙論文が通りましたので、お知らせします。後日の研究科委員長会議の議を経て、正式承認となります。…最後の頑張りは見事でした。緊張がとれて、逆に体調を崩すことがないように願います」。やはりまだ安心しきれなかったため、このメールにホッとして、何度も読み返しました。大学受験の時の電報は「ミカンミノル」だったので、「サクラサク」には格別な嬉しさがありました。さらに、22日にも研究科委員長会議で承認された旨のメールも届きました。これで、正式に学位取得が決まり、ようやく一安心です。
公聴会が終わってからも、興奮で眠れなかったり、夢に論文の図が出てきてうなされたり、何度も夜中に目が覚めたりと、かなり疲れが深いことを感じました。が、公聴会が終わると同時に胸がスーっとした爽快感は、1週間経っても続いていました。「胸のつかえがとれるとはこのことだな」とつくづく実感したのでした。

 
                                                         


                         






   道のり〜その8 胸突き八丁のラストスパート

 2月15日の公聴会・口頭試問が論文のゴールになることがわかったため、2月4日頃になるとゴールまでにやらなければならないスケジュールを書き出し、毎日それに取り組みました。というのも、1月末に実施した550人分の学期末試験の成績提出が2月11日締め切りであり、さらに2月10日までに学会誌の投稿論文の査読を行う必要があり、第2回の審査会後に修正論文を提出してから第3回のメール審査でのコメントが届くまでの間に、できるかぎり仕事を終えておかなければならなかったためです。
 輪をかけて、この時期に入試監督や会議という通常業務の他に、毎週金曜日に埼玉県社会福祉協議会の研修講師を終日入れたほか、私が会長をしている熊谷の市民活動支援センターの交流会が入る等、通常業務以上に忙しいスケジュールになってしまいました。
そのため、この時期には絶対に体調を崩すことができず、毎日、マスクをして仕事に通っていました。

そして2月6日頃から、第3回目の審査結果のメールが次々と届きました。最初の先生からのメールは1箇所のみの指摘で、すぐに修正が可能でした。次に届いた先生からのメールは、多少なりとも手を入れる必要があったのですが、ほぼ1日で終わりました。そして翌7日に届いた先生からのメールは、「なぜ今これなのか、もっと早くに言ってほしい」というものでした。その日は熊谷校舎で仕事を終えた後に学生のコンパがあり、帰宅してから修正に取り組みました。わずかな仮眠をとっただけで朝には新旧対比表も出来上がっていました。そして、4人目の先生からはコメントがなくて助かりました。
翌8日は埼玉県社会福祉協議会の研修講師で、3日間の継続研修の最終日でした。講師が寝不足では受講生に申し訳ないと、ひたすらテンションを高めて研修に臨んだものです。そして帰宅したらS先生から「どのような方向で修正するのか、速やかに全員にメールを返信せよ」という連絡が入っていたため、すでに出来上がっていた対比表を即座に全員の先生に送りました。
その日も深夜まで論文の修正を行い、翌日は早朝に目が覚めてまた修正を行うという状態でした。翌9日も、熊谷校舎と大崎校舎での2つの会議を終えて帰宅してから、深夜まで論文を作成しました。
 実は数年前から患っている病気のため、私にとって寝不足状態は致命的でした。医師からも、毎日6時間は眠るようにと指示されていたのですが、さすがにこの時はなりふり構ってはいられません。久しぶりにほぼ徹夜の状態が続きました。でも、気を張っている時には体調は悪くならないものですね。

その後、仕上げた論文を12日に製本所に出し、要旨をT大学に提出してからは、少しずつ取り組んでいた公聴会資料を本格的に作成しました。当初、目次順に作成していたものを、途中でリサーチクエスチョン順に並べ替えてみました。しかし、座りが悪いので、再び目次順に作り替えました。自宅のプリンターで両面印刷で40部印刷し、全て綴じました。ところが、声を出して予行演習を行う毎に、誤字や訂正箇所が見つかるのです。その都度刷り直して綴じてはいたのですが、キリがないので綴じるのを辞めて、最後の最後に綴じることにしました。また、いくらかのQ&A も作成し、それも声に出して話す練習をしました。
14日は研究日で1日空いていたため、公聴会の準備をし、午後からは製本された黒表紙の論文を取りに出掛けました。実はこの間、12冊の論文原稿をキャリーバッグに詰めて持ち運んだ時に、とても自分の力では公聴会当日に沢山の論文は運べないと感じていました。なんといっても、1冊260頁はあるため、複数冊持ち歩くとA4版用紙が何冊にもなるほどの重量があったのです。
 そこで考えたのが、14日中に大学の最寄り駅のコインロッカーに預けるというものでした。15日に自宅から直接大学に行くのであれば、タクシーを使ってでも運べるのですが、その日はタイミングが悪く、遠くでの講演を入れてしまい、その後に自宅に戻る暇はなく、講演先からすぐに大学に向かわなければなりませんでした。そのため、製本された論文を受け取りに行く前に大学の最寄り駅に寄り、公聴会資料40部と閲覧用の簡易製本の論文2冊をコインロッカーに預けることにしました。
その後、製本所に出向き黒表紙の製本を受け取った時には、ジワリとした重みを感じました。黒表紙に金文字で論文名と名前が書いてあると、やはりこれまでデジタルコンビニで行っていた簡易製本とは違う重々しさがありました。黒表紙は9冊依頼し、その日は3冊だけ持ち帰り、残りの6冊は自宅に郵送してもらうこととしました。翌日の公聴会で提出する国会図書館とT 大学図書館への提出用、そしてS先生に渡す分です。あとの6冊は、後日副査と外部審査員に送れば良いと考えていました。

 この10日間のラストスパートは本当に苦しい時期でした。箱根駅伝で言えば最終10区の大手町まで来ているのに、最後のゴールに辿り着くまでが苦しくて苦しくて仕方がない、そんなかんじです。それでも、15日に明確なゴールが見えていたため頑張れたのだと思います。「今なら受験生の気持ちがわかるなぁ」と思いながら、朝も夜も机に向かい乗り切った10日間でした。


 

                                                          


                         




        


   道のり〜その7 修正につぐ修正の本審査

 本審査では、内部審査員4人の他に外部審査員1人を加えた5人で審査を行うことになります。課程博士の審査員は外部審査員を入れて4人なので、それよりも1人多い分、厳しさが増すといえるでしょう。そして、T大学の本審査は全部で5回行われます。5人の審査員が集まっての審査会が3回、他の先生や院生の前で研究発表を行う公聴会が4回目、同日に行われる審査員からの口頭試問が5回目です。審査を行いそこで出された修正コメントに沿って修正した論文を製本して提出し、次回に臨むという手順を繰り返します。
 S先生からは、外部審査員を依頼するようにと言われていたため、以前師事していた先生にメールで依頼するも、またもや忙しさを理由に断られてしまいました。とても残念だったのですが、立ち止まってはいられません。学会理事会でご一緒させていただいている先生に依頼したところ、すぐにお引き受けいただけたので、とても有り難かったです。

 第1回目の本審査は12月23日でした。外部審査員の先生も遠方から駆けつけてくださり、コメントをいただきました。2時間程の本審査会が終了し、第2回目の審査会は1月18日の夜に開かれることになりました。でも、そのためには1月7日に論文を再提出しなければなりません。そのため、当然、年末年始は論文執筆に従事する必要があります。
 年に一度、家族とスキー場で年末年始を過ごすのが恒例の私にとって、それができないのは残念だったのですが、S先生から「論文は一生に一度のもの、お正月より論文を優先せよ」と言われたため、家族には正月のスキーには行けなくなった旨を伝えました。そして、一人で自宅に残り、年末年始を超えるための準備をしました。お節料理は宅配のものを頼み、とにかく集中できる時間を確保しました。1月5日、6日には母校の非常勤講師の仕事が入っているため、なんとしても1月4日までには論文を仕上げなければなりません。
 そして、12月23日からひたすら論文の修正を行いました。修正というのは、審査員から出された全ての修正要求に応えるだけでなく、修正前と修正後のどこをどうなおしたかの対比表をつけること、それにあわせて要旨や目次も全て変更することを意味します。そのため、論文の中味を変えただけでは十分でなく、体裁を整えて印刷・製本して、はじめて修正したといえるのです。細心の注意が必要であり、修正後も何度か全体を読み返してチェックをします。
 10日間、とにかく毎日、論文の修正を行いました。この時期は、辛いという気持ちよりも、むしろ研究の醍醐味を感じることができました。はじめて、幸せな気持ちに包まれながら論文の修正を行うことができたのです。考えれば考えるほど新たな発想が浮かんできて、論文の質が高まることが実感できたためです。この時期は、後から振り返っても論文以外のことは記憶に残っていません。ひたすら没頭した10日間でした。
 12月31日の除夜の鐘を聴き、東京スカイツリーのイルミネーションを見ながら年を越し、1月1日に論文が仕上がりました。そして、いつものように上野駅前のデジタルコンビニで製本に出しました。製本に出してからは放心状態で、上野の街を歩きました。これまでも修正を行ってきたのですが、今回はいつも以上に全身全霊をこめたため、精も根も尽き果てたかんじになったのです。
 少し休まなければならないと思い、1月2日は久しぶりに海を見に行くことにしました。初めて行った観音崎の海は晴れ渡っており、広々としていました。まるで、その時の自分の気持ちを反映したように、清々しい気分になったのを覚えています。そして1月3日からは、別の仕事に取り組みました。


 第2回目の審査会は1月18日でした。やはりここでも2時間程度の審査が行われ、修正要求が寄せられました。この頃になると、ゴールは2月15日の公聴会(第4回審査)と口頭試問(第5回審査)であることが明らかになっており、3回目の審査は集まらずにメールで行うことが決まりました。第2回目の修正箇所については、2月4日までに訂正して製本したものを提出せよということになっていたのですが、きちんとした製本ではなくファイル綴じでも良いことがわかりました。
 そこで、1月31日に大学でファイル綴じ6冊を仕上げ、その足でT大学に提出しに行きました。しかし、製本所に出して製本してもらうよりも、実は負担が重いことがわかったのです。自分で6冊分印刷して綴じて運ぶのですが、思ったよりも印刷と綴じる労力がかかるうえ、製本よりもファイル綴じの方がかさばって重いのです。金額もわずかしか安くなかったので、もし次回なおすことがあれば、やはり製本に出そううと思ったのでした。





                                                           


                         




        

   道のり〜その6 研究休暇明けの仕事の嵐と「試練感」を味わった予備審査結果

 走り続けた研究休暇が終了し、2012年4月から再び大学に復帰した私にとって、前期はリハビリ期間でした。休暇中にすっかり自分のペースでトランスしていたため、仕事のペースに合わせるのが難儀で仕方ありませんでした。仕事が終わって帰宅すると、心身共に疲れはててしまい、何もやる気が起きないのです。過去に研究休暇を過ごした先生にそのことを話すと、「みんなそうだよ、今はあなたのリハビリ期間だから」と言われました。その言葉どおり、リハビリ期間は夏休みまでの半年間にも及びました。
 輪をかけて、「待っていました」とばかり仕事が山積みになっていました。休暇前と同じ学部長補佐の学部運営委員、学内学会の常任委員長(事務局長)、日本ソーシャルワーク学会理事、日本社会福祉教育学会理事と立正大学での第8回全国大会の実行委員長、埼玉県社会福祉協議会の3日間×3クールの継続研修、日本福祉大学の非常勤講師、教員研修の講師、社会福祉士養成校協会の演習教育部会委員、東京社会福祉士会の倫理委員会委員、熊谷市開発審査会委員、熊谷市市民活動支援センター運営協議会会長等々、「休暇中なので遠慮します」と言われていた仕事が復活しただけでなく、新しい役割も課せられました。おまけに、自分でソーシャルワーク演習研究会なるものまで立ち上げてしまいました。
 そのため、とにかく働きに働きました。3月にS先生に論文を提出し、4月に3本目の山を越える、つまり5年間で査読誌に3本以上掲載という執筆資格要件がクリアできたという嬉しい知らせはあったものの、ひたすら仕事に追われ瞬く間に時間が過ぎていきました。
 5月になり、S先生から「これから予備審査を始める。予備審査の結果は9月に出る」と聞かされました。T大学は2段階方式をとっており、まずは主査・副査の内部審査員4人で予備審査を行い、通れば外部審査員を入れた5人での本審査に進みます。また、一発勝負ではなく、随時修正を行いながら主査・副査・執筆者で論文を仕上げていくスタイルをとっています。
 9月までは長いなあと思いながらも、ひたすら仕事に没頭し、あっという間に9月を迎えることになりました。


 予備審査の結果、修正項目が15項目ほどありました。それも、かなり本質的な修正がいくらかあったように感じました。「こんなに修正が必要で本当に大丈夫か???」という不安を禁じ得ませんでした。面白いことに修正項目の多くは、査読論文で書いていない部分についてでした。つまり、論文全体の結論部分や論文構成等に関する指摘が主で、一つ一つのパーツは良くても全体としての整合性に欠ける、という評価だったのだと思います。つくづく、人の目が入っていないと論文の質は向上しない、ということを実感しました。
 修正要求が突きつけられてからは、ひたすら修正を行いました。結論部分を大幅に修正し、きちんと論文全体の結論になるように変えました。その時、自分は「試練感」としか喩えようのないような感情におそわれました。言葉で表すのは難しいのですが、試練を背負う圧力と重苦しさ、それに立ち向かわなければならないという毅然とした闘志、どこかで「自分はやれるはずだ」というかすかな希望・・・。それらがないまぜになった気持ちです。ここをクリアしないと次へは進めない。とにかく前進するしかない。そんな気持ちでした。

 そして一旦修正論文を提出した後に、内部審査員4人から指導を受ける機会がありました。初めてお会いする先生方が多いためとても緊張したのですが、思ったより先生方は支持的でした。きちんとした結論になっていなかった部分については、リサーチクエスチョンの検討結果を書いて大幅に修正した点を評価をしてもらったうえで、再び新たな修正要求が課せられました。
 ただし、その時期は私にとって「魔の連続勤務」の最中でした。10月、11月は例年でも忙しい時期であるにもかかわらず、その年は実習巡回や学内学会の仕事、運営委員としての仕事が山積みで、8日間勤務した後、1日の休みは持ち帰り仕事を行い、その翌日からまた8日間勤務を行うという状況でした。疲れと風邪ぎみで体調もスッキリしません。
 
そんななか、自分にとっての緊急事態が発生しました。当初、「修正した論文は1ヶ月後に提出したらいいね」と指導の場では言われていたのですが、予備審査は最初の論文提出から半年以内に結論を出さなければならないルールがあるため、それに則ったところスケジュール変更を余儀なくされたのです。春の論文提出からカウントしたら2週間後に修正して製本した論文を提出しなければ間に合わない、という連絡が入りました。一応、自分の状況を説明してはみたものの「ルールだから仕方がない」と言われ、とにかくそれに従うしかありませんでした。修正だけでなく製本も必要なため、2週間ギリギリでの書き上げでは間に合いません。
 それでも、論文の修正をしていると闘志がわいてきて、体調も良くなりました。そして、当てられる時間は全て論文修正に当て、当初予定していた2週間後より早めに仕上げて製本し、大学に提出しました。

 
その後、修正した論文は受理され、無事に予備審査を通過することができました。それ以降、本審査の段階に移行することになるのでした。



                                                          


                         




           


   道のり〜その5 研究休暇後半(2つの試練)

 研究休暇の後半は、雷が落ちたようなショックな出来事で幕が開けました。友人と楽しい旅行をして家に帰ってみると、投稿していた学会誌の編集委員会から封筒が届いていました。中を空けてみると、そこには「不採用」通知が入っているではありませんか…。
 
3本目の論文は、1本目で書いたM-GTAの続編として、医療ソーシャルワーカーの中堅期からベテラン期にかけての変容についてまとめ、再び学会誌に投稿していました。少し結果が遅いなと思っていたら、案の定、第三査読(注:最初の2人の査読者のうち、1人が不可をつけた場合に3人目の査読者にその判断をまかせること)になり、3人目の査読者からは「オールB(不可)」という不名誉な評価までついてきたのです。もう、天国から地獄へ突き落とされるような気持ちになりました。
 査読報告を読んでみると、どうやら私のM-GTAに対する分析が甘かったことがわかりました。そこで再度、スーパービジョンを受けて、データ分析をやり直すことにしました。一旦まとめたデータ分析結果を再度見直し、概念化・カテゴリー化をやり直すという、データと格闘する日々でした。こうなると、心理的にデータの山が押し寄せてきて、「まるで、毎日毎日、滝に打たれて修行しているようだ」と感じました。2011年12月、博士論文執筆において最も辛い時期でした。
 これまでも、査読誌に投稿して却下された経験はあったのですが、とりわけ今回はこたえました。3本目の論文が通らなければ、5年間で査読論文3本という要件が先延ばしになる。そのうち、「最初に通った論文の期限が切れてしまったらどうしよう」と不安がよぎって仕方がありません。それでも、ここできちんとM-GTAの分析を修正しておかなければ、前と同じ結果になってしまうと思って踏ん張りました。

そして再び、新人期からベテラン期までの一連の変容過程を明らかにする、という目的で論文を仕上げ、こんどは『ソーシャルワーク研究』に投稿しました。ところが、『ソーシャルワーク研究』の出版社は、2本目のソーシャルワーク学会誌の出版も手がけており、査読を行う前に出版社から「形式が以前の論文と酷似しており、二重投稿ではないか」とのメールが届いたのです。
 二重投稿などさらさら目論んでおらず、ましてや読む人が読めば全く別論文だと判断できるだろうと思い、とても心外な気持ちで他学会の二重投稿の定義を集めました。そのなかでも、私のデータ分析を支持してくれた特に印象に残ったものは、出月康夫氏の米国外科学術誌編集者による最終案「二重投稿、不正投稿防止の為のガイドライン」(CLINICIAN ’00 NO.493)でした。そこでは、同一データを用いて2つの論文を書く場合、どのような違いがあれば二重投稿とみなされないのかが次のように書かれています。「論文に使われているデータベースが、前に発表された論文のものより50%あるいはそれ以上増えているもの、または、同じデータを利用していても、前のものとは全く別の仮説を証明、あるいは否定するために、全く別の観点から分析した論文は二重投稿と見なさない。この場合には、同じデータベースを使用した前の論文を参考文献として引用しておくこと」(p.591)。
 この記述とともに、2本目の論文と3本目の論文がどのように違うのかの対比表を作成して、出版社に送って説明を行いました。その結果、ようやく二重投稿疑惑は晴れ、無事に3本目の論文も採用されることになりました。今回のことで、同じデータに違う角度からアプローチする際には、くれぐれも慎重に行うべきことを肝に銘じました。いえ、むしろ1つのデータに基づいて論文を執筆する場合には、明確に内容が切り分けられる場合以外は、今回のような複数の論文を書くよりも、珠玉の1本を執筆することが望ましいと思います。
そして、研究休暇が終了する直前の3月31日に、すでに一旦まとめてS先生に提出しておいた博士論文本体の修正連絡が入り、それを修正して提出しました。研究で始まり研究で終わる、文字通りの研究休暇でした。この1年間の成果としては、博士論文本体(200数十ページ)とは別に、日の目を見たものもお蔵入りになったものも含めて、研究テーマに関する7本の小論文を書きました。それ以外には、研究テーマに直接関連しない調査報告2本と、科研費報告書1冊分を書きました。学会発表は計4回です。

 でも、研究休暇は決して研究だけを行っていたわけではありません。研究を軸に過ごしていたのですが、いろいろなことも行いました。
 一番大きかったのは、製菓の勉強です。1年間、20回コースの製菓学校に通いつつ、自宅でも毎週のようにお菓子を作り続けました。高校生の時に「ケーキ職人になりたい」という夢を一時期持っていた私にとって、職人にはなれなかったけれども、とても充実した面白い機会でした。
 二つ目は、家を買って引っ越したことです。長年の賃貸生活から脱し、かなり交通の便の良い場所に住むことになりました。引越に際して、インテリアの調和をはかったことや、引っ越してから以前よりも随分丁寧に家事を行うようになったため、「暮らしの感覚」が増したように感じます。仕事や研究を行うにも、まずは「暮らし」あってのこと。今後も元気に生きていくうえでの基盤を作った1年でした。
 そして三つ目は、フィンランドに行ったことです。これまで、何度も北欧に足を運んできたのですが、フィンランドは今回が初めてで、かつ、自分の心身のコンディションが最高に悪い時に行きました。そのため、現地では何度も失敗し、帰ってきてからも数日間寝込んでしまうという、散々な状況でした。それでも、そんな失敗談も今となっては今後への学びになりました。今回、どん底の海外視察だったため、次回はその教訓を生かして、必ずやより良い視察にすることができる、という妙な前向き姿勢が生まれたためです。2013年夏には、最高の視察を実現させるためにフィンランドに調査に行く予定です。
 こんな研究休暇をふりかえって総じて言えることは、自分の何十年かの人生のなかで、「最も」と言っていいくらい充実した1年だったことです。そのため、2012年4月からの職場復帰の際にはとても前向きでした。「もっとあれをやれば良かった」と後悔していたら、「もっと休暇が長ければ」と思ったでしょう。でも全くそう思わないのは、完全燃焼したからだと思います。まさに「研究休暇に悔いなし!」です。



                                                          


                         




           


   道のり〜その4 研究休暇前半(快調に飛ばす)

 2010年度は、M-GTAの分析に明け暮れて無事に終わろうとしていました。ところが、3月11日にあの東日本大震災が起こり、私自身も震度6の地域で被災をして、避難する経験をしました。その時のダメージにより、津波映像を見ると気分が悪くなったり、被災地にボランティアで入れない状態になったのです。
 労力を差し出すこともできない自分にふがいなさを感じました。それでも、もし何かができるとしたら、その時に自分ができることを精一杯頑張ることしかないと思いました。そこで、他人にではなく自分自身に「頑張れ」と言うことに決めました。
 
 翌2011年度は自分にとっての正念場であり、自分との格闘の年でもありました。
待望の研究休暇がもらえたのです。我が校では、勤続5年で研究休暇がもらえる権利が発生します。実際には、先に権利が発生した先生達が順番を待っていたので、私がもらえたのは7年目の年となりました。すでに特別研究員としてT大学での受け入れが決まっていたのですが、実際は自宅で研究に従事する日々を送ることとしました。
この研究休暇期間中に、私には大きな目標がありました。それは論文博士号の執筆資格要件を満たすことです。T大学の課程博士の執筆資格要件は、「過去5年以内に審査付き雑誌に単著もしくはファーストオーサーとして掲載された研究論文が1点以上の存在すること」です。そのため、ゼミのメンバーは皆、査読誌への掲載を目指して頑張っていました。
 ところが、論文博士に関しては「過去5年以内に審査付き雑誌に単著もしくはファーストオーサーとして掲載された研究論文が3点以上の存在すること」が要件となります。実に、課程博士の3倍の要件が課せられるのです。それも、査読つき論文掲載誌の例示には『社会福祉学』『ソーシャルワーク学会誌』『社会福祉研究』『ソーシャルワーク研究』等々が記載されており、他の査読誌よりも記載されているそれらの雑誌が推奨されている状態でした。いずれの学会誌や研究誌も、福祉業界では一流のものであり、ハードルの高さがうかがえます。
 すでに、2010年度中にM-GTAの分析に基づいて書いた、医療ソーシャルワーカーの新人期から中堅期にかけての変容についての論文が、『社会福祉学』に掲載されることが決まっていたので、私にとってはあと2本の論文の掲載が必要でした。あと2つの山を越えること、それが休暇中の最大の命題だったのです。

 研究休暇に入る頃の私には、期待と同じだけ不安がのしかかっていました。M-GTAの分析はしていたものの、部分的に統合した『社会福祉学』の論文よりも、統合されずに放置していたデータのほうが、はるかに多かったからです。果たして、研究休暇中にまとまったものができるのかどうか、また、ついつい休暇ということでぼんやり過ごしてしまうのではないかと、懸念していたのです。
 本来は2011年4月1日から研究休暇のスタートだったのですが、3月31日もお休みだったため、その日からスタートしました。3月31日の朝起きて、まず行ったことは散歩でした。それまでとは違う何かをしたかった1年間のはじめは、すがすがしい朝の空気のなかを歩くことでした。それも、近所の建築中の東京スカイツリーの周辺を歩いてみました。急ぎ足でちょうど30分、とても良い距離です。それ以降、私の日課に朝の散歩が加わり、東京スカイツリーの周りを歩くことが定番となりました。散歩は、代謝を高めて脳を活性化させるためと、運動不足による体重増加防止に役立ちました。毎日、「上を向いて、頑張ろう日本」と書かれたスカイツリーの横断幕を見ながら、自分を鼓舞していました。
 次に、毎日のリズムを作ることにも気をつけました。朝は7時には起きて散歩をして朝食をとる。大学の始業と同じく9時には勉強をはじめる。そして少なくとも12時までの3時間は勉強を行う。そして、昼食後はいろいろなことを行い、夕方から夜にかけて4時間か5時間は勉強をする。そして夜は12時までに寝る。それが日課です。数ヶ月の短期間であれば、1日10時間以上でも勉強することができたでしょう。でも、1年間の研究休暇は私にとっては「マラソン」でした。走り続けるためには、自分のペースが乱されない勉強時間の設定と生活リズムの確立をしなければなりません。最大8時間でおさえたことは、結果的には良かったと思っています。

 生活のリズムができた頃、最初に抱いていた心配は嘘のようになくなりました。自分でも驚く程、快調に走っていました。書いて書いてかきまくる、そんな毎日が続きました。その時の精神状態は、もぐらが地下に潜って活動するように現実世界の一段下の精神世界にこもって、ひたすら論文だけを追い求めるというものでした。そのため、たまに外部の委員会等で出掛けて行くと、予想以上に疲れて帰ってくることになりました。そんな浮世離れした状態は、翌年の仕事復帰の際に大きな壁になってしまうのですが、それはまた後で述べることにします。
そして、一つのデータで行った分析で、どこをどう区分けして論文にすればよいのか戸惑いながらも、2本目の論文はベテラン4人の事例検討を行い、ソーシャルワーク学会に投稿しました。ところが、例によって「修正後再査読」となってしまったのです。とにかく、2番目の山を越えなければ前には進めず、それには取り上げた4人のみならず、その元となったベテラン17人の事例検討をまず行ったうえで4人を照射する必要がありました。「修正後再査読」の場合、修正期間は3週間程です。ちょうど、全国の演習教員の研修講師等を立て続けに2回行わなければならない時期でした。それも、遠くで行うため1泊2日×2回の時間が拘束されました。なんとか、その合間を縫って修正を行い返送したところ、無事に2つ目の山を越えることができました。この時は、心底安堵しました。そして、「研究って身を削るものだなぁ」と思ったものです。
実はその前に、お蔵入りになった論文が2本あったのです。とにかく早く執筆資格要件を満たさなければとの焦りから、勢いで2本の論文を書いたのですが、あまりにも薄っぺらい内容で投稿しても却下されることが目に見えていたため、結局、投稿はしませんでした。論文はそんなに量産できるものではないことを、この時身をもって実感しました。
 こんな調子で、研究休暇の前半は過ぎていきました。
 


                                                           


                         




                

   道のり〜その3 新たな研究方法との出会いと調査の実施・分析

 S先生のゼミに通いはじめて、医療ソーシャルワーカーの成長過程について明らかにしたい、という自身の研究テーマが固まってくるにつれ、次はどのような方法でそれを実証したら良いのか、という壁に直面することとなりました。その頃、学会誌では「○○法」という定式化された研究方法を活用した論文が多く掲載されるようになっており、それまでの自分のような無手勝流では、すでに太刀打ちできないことを感じていたのです。

 なんとか、研究テーマを解明できる方法はないものかと思案している折に、ちょうど
国際医療福祉大学の小嶋章吾先生が修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(M-GTA)の講習を開いてくださる、という話がありました。その頃の私は、M-GTAの名前くらいは聞いたことがあり、それを使って研究した論文や本も読んだことはあったのですが、何が何だかちんぷんかんぷんの状態でした。その考え方もわからないし、手順もわからないし、そもそも質的研究法って何かということも、実感としては伴っていなかったのでしょう。とはいえ、それまでも生活史調査やエスノメソドロジーについてのテキストを書いたことがあったため、質的研究法自体には比較的馴染みがありました。また、その頃までに初めてカイ二乗検定を用いた統計処理を行った論文も書いており、新しい研究方法を習得・活用するのに抵抗はなかったように思います。
 そこで小嶋先生の講習会に参加してM-GTAについてかじったところで、「これだ!!」というひらめきがあったのです。私が明らかにしたい事象は成長過程というプロセス性があり、まさにM-GTAの適応性が高いと感じました。
 それ以降、木下康仁先生主催のM-GTA研究会に参加するとともに、有料(1回につき2万円)で小嶋先生に個人的なスーパービジョンを受けることとなりました。


 そして、日本全国から17人のベテランと4人の中堅医療ソーシャルワーカーを選定し、調査を実施しました。私が研究協力者に課した要件はなかなか厳しいものでした。@ソーシャルワーカー経験が15年以上あり、その大半が医療ソーシャルワーカー経験であること。A現在、急性期病院で勤務していること。B各方面でリーダーシップを発揮していること。それらの条件に見合う人を探すために、知り合いの医療ソーシャルワーカー協会役員や知人に紹介してもらい、アタックして了解を得ました。
 そして、北から南にいたる8県にわたり、調査のため飛び回る日々が始まりました。獲得していた科研費(基盤研究C)から交通費と謝礼金を捻出し、謝礼金のほかに、自腹でお土産も買って渡しました。調査の際には、ICレコーダーとノートと筆記用具は必需品でした。大体2時間前後で調査は終わるのですが、なかには3時間程話して下さる人や、調査後に夕食をご一緒していただける場合もありました。また、調査は相手の病院で行うことが多かったので、病院の様子をみることもでき、私にとってはけっこう楽しい時間でした。

 そして録音した調査データは、自分でテープ起こしをしました。これがまた、なかなか骨が折れる作業でした。M-GTAのテープ起こしは、一言一句、間投詞まで再現する形なので、かなり実際のインタビューに近い形でのデータ再現をします。ゆっくり話す人の場合には、極力レコーダーを止めずに話す速度でパソコンを打っていき、早めに話す人の場合には、出来るだけ文末まで聞いてから一文を再現するようにしました。また、不明な単語がある場合には、チェックのみして後でまとめて聞き返し、とにかく先に進むことを心がけました。何度か新幹線の中でテープ起こしにチャレンジしたのですが、聞き取りにくく効率が悪いためにテープ起こしには向いていないことがわかりました。そして、2時間通しで行うと、集中力と聴力が低下して聞き取れない単語が多くなるので、そうなる前にやめることが必要だということもわかりました。実はかなり集中力を要する作業なので、まとめてやってしまおうと思わずに小まめに時間を作って行った方が、効率が良いのです。
 私の場合は、おおよそ話しを聞いた時間×3倍+1時間ほどの時間がかかりました。そのため、2時間のインタビューには、テープ起こしは7時間はかかると見積もる必要があります。でも、細切れなので、思ったよりも時間と根気が必要なことがわかりました。  
 2009年から、研究生が終わって再びオブザーバーに戻った2010年にかけての2年間は、そんなかんじで21人のインタビューとテープ起こし作業に従事しました。時々、インタビューから帰ってきて次の予定まで数時間空き、かといって自宅に帰れない時には、インターネットカフェを使ってテープ起こしを行いました。ほとんど初体験のインターネットカフェに入るだけで、ドキドキワクワクしたものです。

 同時に、テープ起こしをしたデータは、M-GTAの手法で分析をしはじめました。最初は何度もデータを読み、分析テーマにそって該当する箇所をマークしていく作業から始まります。そして、その現象を表す概念名を考えるのですが、最初の一例がとても豊富なデータだったため、該当箇所が多いのは嬉しい反面、なかなか大変でした。ピッタリくる概念が生成できないのです。まだこの方法の初心者であり、多様な語彙に恵まれていないため、類語辞典とにらめっこしながら概念を考えました。そして、最初の一例から悪戦苦闘しながらいくらかの概念を生成した段階で、スーパービジョンを受けました。でも、あまりにも指摘事項が多く、また、指摘されていることがピンと来なくて分析の難しさを感じました。

 インタビューは進んでいきデータはたまってくるけれども、なかなか分析が進まない。ある時期、少し分析を休んで、データを読まない日々が続きました。でも、「これではダメだ、研究が進まない」と危機感を持った私がとった行動は、ホテルで缶詰になることでした。よく作家が行うあれを一度やってみたかったのです。それも自宅から離れた方がよいと思い、3連休を利用して松本のホテルに泊まり、ひたすら分析作業を行いました。その時、幾分か作業がはかどり、複数の概念が生成できたので分析にはずみがつきました。
 缶詰の一人合宿から戻った後も引き続き分析に取り組み、一段落したらスーパービジョンを受ける。こんな日々が続きました。

 


                                                          


                         




                

   道のり〜その2 指導教員の確保とゼミへのオブザーバー参加

 そんなかんじで細々と研究は続けていたものの、やはり博士号取得への思いは消えず、残された道は論文博士取得のみとなった私でした。
 その時に、まず直面した壁は指導教員の確保です。研究者仲間からも、「指導教員は必ず必要」と言われていたので、なんとか確保しなければと焦りを感じていました。しかしながら、母校で師事していた先生は当時すでに他大学に移籍されており、お手紙を出し電話でも話したものの、忙しさを理由に指導教員の了解は得られませんでした。また、いろいろと研究的な雑談をしていた今は亡き先生からは、「うちに来て博士論文を書かないか」と誘われたのですが、なぜか心が動かされず、その先生に師事することはありませんでした。


 そんななか、友人がT大学のS先生のもとで学んでいるという情報を聞き、「もしかするとS先生なら」という淡い期待を持ったのです。S先生とは、以前、社会福祉士会の研修講師として来ていただいたほか、医療ソーシャルワーク協会の継続研修でグループスーパービジョンを受講したことがありました。また、私達が出版した『社会福祉援助技術演習ワークブック』の短評を『ソーシャルワーク研究』に書いて下さったこともあり、なんとなく面識はあり年賀状の交換はしていました。
そこで、社会福祉実践理論学会(現日本ソーシャルワーク学会)の懇親会の席で、思い切ってS先生に指導の件を切り出したところ、拍子抜けするほどすんなりと「いいですよ、ゼミに来てください。」と言われました。その時は、飛び上がって喜んだことを覚えています。
 そして、2007年夏から、毎週土曜日、S先生の行う大学院博士課程ゼミにオブザーバーとして参加することになりました。
 大学院ゼミでは、十数人が一堂に会し、毎回1人か2人ずつ発表者を決めて研究の進捗状況を発表していました。多くは大学の教員でしたが、福祉現場で実践を行っている人や、大学院生オンリーの人もなかにはいました。皆、いくらかの社会人経験を積んでいる人達ばかりで、20代後半から50代、60代まで多様な顔ぶれでした。
 当初、私はこれまで自分が行ってきた「ソーシャルワーカーの成長過程の研究」を整理すれば、博士論文は仕上がるものだと思っていました。そのため、私の発表時には、それまで取り組んできた研究のダイジェスト版をまとめて発表し、それに基づいて作成した章立てを示しました。しかし、S先生はそれを「良し」とはしませんでした。先生は「計るものと計られるものを考えよ」(研究目的が達成できるような研究方法を活用せよという意味)と私に向かって話されました。その時、私にとってはなんのことだかピンと来なかったのですが、今思えばそれまでの研究の寄せ集めで博士論文が仕上がるほど、甘い世界ではなかったということだけは言えますし、今なら先生が仰った「計るものと計られるものを考えよ」という言葉の意味が、よくわかります。

 大学院ゼミでのS先生の指導コメントはとても原則的であり、一言一句聞き漏らさないようにノートに書き留めていきました。毎回行くと刺激がもらえて、「勉強している」という気分になりました。
また、私も他の人達の発表には必ず意見しました。言いたくなるのを我慢するのが性に合わないため、どうしても意見を言ってしまうのです。しかしながら、それが必ずしも聞き心地のいいものではなかったからか、院生の飲み会で年配の女性から「保正さんはツンツンしている」と言われたりもしました。その言葉を聞いた時、「ゼミに出席するのが嫌だなぁ」という気持ちになりました。が、せっかくの学びの機会と指導教員を無くすことはできませんでした。校務や社会的活動がある日を除いては、継続的にゼミに通いました。
 翌2008年からは、S先生の勧めもあり大学院の研究生となりました。全くのオブザーバーの立場ではなく、幾分かの学費(年13万円程)を支払いながらの在籍のため、少しは肩身の狭い思いは薄らいでいきました。研究生としては2009年までの2年間、在籍することになりました。その間、半期に1回ずつは自らの研究の進捗状況を発表する機会に恵まれました。

                                                           


                                




                

  道のり〜その1  博士課程入学から退学まで

 2013年2月22日。T大学より博士(ソーシャルワーク)の学位、乙(ソ)第一号が授与されました。つまり、この名称での論文博士第一号ということです。
 この日に至るまで、なんと長い道のりだったことでしょう。一度は博士課程に在籍しながら、勤務先の都合で退学を余儀なくされ、転職した先でもやはり在籍はかなわず、私の目の前には論文博士取得しか道はありませんでした。
 課程博士の3倍の要件が課せられる論文博士。特殊な例なので、あまり一般化できないかもしれませんが、もしかするとこれから博士号を目指す人にとって何かの参考になるかもしれないと思い、その道のりを書き綴ることにします。
 
 幼い頃から、私は「プロ」になりたくて仕方ありませんでした。何のプロかといわれても明確には答えられなかったのですが、とにかくプロに憧れ、何かのプロになることを目指していました。また好奇心旺盛だった私は、小学校6年生の寄せ書きには、他の子ども達が具体的になりたい仕事を書いているのに対し、自分だけが「あらゆることに挑戦したい」と書いたのを覚えています。
 そんな私は、一通り、色々なことに取り組んできました。ピアノ、バドミントン、演劇、ブラスバンド、速記…。スポーツも音楽も芸術もかじってはみたものの、結局どれも身につかず、唯一続いているのは大学時代に入会した研究会で、そこで始めた「研究」だけでした。
 そうはいっても大学院修士課程には、研究をもっと行いたいというよりも、大学時代にあまりに勉強せずにこのまま社会に出るのが怖い、というモラトリアムな動機に基づき進学したというのが本音でした。修士課程では、研究とは何かというイロハについて教えられました。
 その後、病院の医療ソーシャルワーカー、老人保健施設の相談員を経て、短大児童教育学科の専任講師として、初めて大学の世界に足を踏み入れることになります。しかしながら、その頃の業績といえば、修士論文といくらかの調査報告、学会発表がある程度で、本格的な論文を書く作業からは遠ざかっていました。経営が傾いていた短大に身を置いて、周りもあまりバリバリと研究などしない環境にいたため、「私もこれからせいぜい2、3本の論文かテキストを書いて、生涯を終えるのかな」と漠然と思っていました。
 しかしながら、「短大の教員になったのだから研究能力をつけなければ」という気持ちがあったのも事実です。その当時は、まだ博士課程進学はあまりメジャーではなく、母校の博士課程も2期生を出したばかりでした。でも、確かにこのままの自分でよいわけはないと思い、短大教員としての2年目に入ってから、進学に向けた勉強を始めました。
 最初の難関は英語の長文読解でした。博士課程の入試には、どこの大学でも英語がつきもので、場合によっては第二外国語が課せられることもありました。しかし、大学入試からすでに10年以上経過し、英語論文から遠ざかっていた私にとって、長文読解はやっかいな課題でした。そこで、英会話教室の個人レッスンに通い、会話ではなく論文読解をオーダーして取り組むことにしたのです。とにかく、1年間で英語読解力をつけなければと思って、取り組みました。
 英語のみならず、専門教科の勉強と研究計画書についても、ひたすら毎日取り組みました。専門教科の勉強は、受験する大学院の教員が書いた本を毎日1冊ずつ読み、出題傾向を把握することに務めました。やがて、1年間の英文読解が終了し、それなりの学力を習得することができました。
 そんなかんじで1年間かけて勉強した結果、母校の大学院博士課程に合格することができました。

 第4期生としての大学院入学式で、私には壇上に立ち入学生代表の「誓いの言葉」を読み上げる役割が与えられました。4月とはいえ、曇り空の肌寒い日でした。これから始まる3年間の博士課程の生活に思いを馳せ、その時の自分なりの「研究能力を高めたい」という気持ちを言葉にこめて話しました。今は亡き恩師からは、「これからの3年間は、あなたにとってはとても大切な3年間になる」と言われ、その言葉を胸に刻みました。
東京の自宅から3時間半かかる大学での朝9時からの指導に間に合わせるためには、自宅を5時過ぎに出なければなりません。眠い目をこすりながらも、月1回の指導には休まずに通いました。大学に行けば、図書館に寄って短大では入手できない英語論文を何本もコピーしては、大きな鞄に詰めて東京に持ち帰り、次回の指導日までに読んでまとめる、という作業をひたすら行いました。
その頃の研究テーマは「エンパワーメント志向の演習教育」でした。今回の論文テーマが「医療ソーシャルワーカーの実践能力変容過程に関する質的研究」のため、そう大きくはかけ離れてはいないことになります。いずれにしても、ソーシャルワークを学ぶ学生がどのようにソーシャルワーカーとして成長していくのか、という成長過程を念頭に置いたテーマといえるでしょう。多分、自分自身が研究者として成長する途上にあったため、このテーマに親しみを感じていたのかもしれません。
そして、大学院生として2年目、短大教員として4年目の時に、4年制の国立大学への移籍の話が舞い込みました。経営的に危ぶまれていた短大にいた私にとっては、願ってもない有り難い話でした。その頃には、数本の論文は執筆しており、短大に入ったばかりの頃よりは、幾分か研究業績は上がっていました。しかし、まだまだ量も質も不十分な状態だったと思います。
でも、そんな私をその大学は採用してくれて、晴れて国立大学の講師の職を得ることができました。ただし、大学院博士課程の退学が採用の条件とされました。誓いの言葉を述べた私にとって、博士課程の退学は忸怩たる思いでしたが、背に腹は代えられず大学院2年目の9月をもって退学となりました。それでも、私のなかで博士課程に入るための努力と、博士課程での1年半は確かな学歴であったため、今でも履歴書には「博士課程中退」と書くことにしています。
 この時に、今振り返っても「もったいないなぁ」と思う失敗をしました。それは、博士課程2年目の半期ずつ支払える学費を一度に1年分支払ったことです。「お金があるうちに支払ってしまえ」と、変な思い切りの良さを発揮したのが裏目に出ました。退学以降の半年間の学費45万円は戻ってきませんでした。ずいぶんと高い勉強料となったのです…。

 その後、4年間いた大学は、改組のため自分が所属していた社会福祉士コースは閉鎖が決まり、私は保育士養成課程への配属が予定されることとなりました。しかしながら、それまでに社会福祉士会の活動や社会福祉士を対象とした研究を行っていた私にとって、再び保育士養成に携わるかどうかは、自らのアイデンティティが問われる大きな転機でした。このままその大学に残り保育士養成に携わるのか、新天地を求めて動き出すのか…。
 そんなジレンマを感じていたある日、たまたま見た研究者求人サイトに、現在の立正大学で援助技術論の教員募集の記事が目にとまりました。立正大学といえば旧制大学であり、社会福祉系でも老舗の一つ。その時に「これは私のためにある求人だ」とさえ思いました。そして、何十人かのなかから選んでいただき、無事に立正大学社会福祉学部に転職し、そこでの教員生活をスタートさせたのです。転職の際に、ひそかに思い描いていたのは「立正大学に行けば、博士課程に入学することが可能かもしれない」ということでした。一度は退学したものの、再度入学し、博士号を取得したいという思いは続いていました。
 しかしながら、転職後に当時の学部長にその旨を話して学長に聞いてもらったところ、答えは「NO」でした。まさかの回答にショックを受けたものの、博士課程入学のためにせっかく得た職を棒に振ることはできず、とにかく勤務することを優先しました。これで、私の前から「博士課程への在籍」という道は閉ざされてしまったのです。
 その頃の私は、すでに「ソーシャルワーカーの成長過程」の研究に取り組んでおり、数人の仲間と共同で調査を行い2冊の本『成長するソーシャルワーカー』と『キャリアを紡ぐソーシャルワーカー』を出していました。それに関連して、幾度か社会福祉士会の学会誌や『ソーシャルワーク研究』、社会福祉実践理論学会(現日本ソーシャルワーク学会)や日本社会福祉教育・ボランティア学習学会の学会誌に論文を投稿して、採用してもらっていました。もちろんすんなり採用されるわけではなく、書き直しのうえ再査読もありましたが、その際に査読委員からもらうコメントは、私にとって貴重な指導の機会でした。
すでに大学院時代の指導教員とは指導関係を終了しており、かといって他に指導教員がいるわけではなく、共同研究では私が他の人達をまとめる立場にありました。そのため、自分の研究の問題点について具体的に指摘してもらえる場は、有り難いものでした。毎年、1、2本は論文を投稿しほぼ採用されることを通して、自分なりに研究能力を磨いていったのでした。

                                                           


                              




                                


研究の部屋へ戻る