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今回は、「抑圧からの解放」を考える3冊です。


 パウロ・フレイレ著・三砂ちづる訳『新訳 被抑圧者の教育学』、亜紀書房、2011年


内容

 装丁に惹かれて本を買うことがあります。この本もその1冊。正確に言うと、以前読んだこの本の装丁が変わり、かつ、「新訳」となっていたため、再び読んでみたくなったのです。10年以上前に、エンパワーメント志向のソーシャルワーク教育の研究を行っている時に初めて出会った本でした。
 何十年も昔の、それも日本の反対側のブラジルでの抑圧されている人達への解放教育が主題であり、なかなかイメージしにくいところがありつつも、あちらこちらでとても共感できるところと遭遇できます。
 とりわけ、抑圧する者と抑圧される者との間の矛盾を乗り越えるとはどのようなことかについて示してある部分は、現代社会でも当てはまることに思い当たります。「被抑圧者の教育学は、抑圧している側からつくり上げられていくものではない。被抑圧者の側が、自らも抑圧者も共に非人間的な状況にあることを批判的に発見していくことからつくり上げられる」(p.26)。「被抑圧者が抑圧者は抑圧者なのだとはっきり発見し、自らの解放のための闘いに従事しようとするときにのみ、抑圧的な体制との『共生関係』を克服することができ、自らへの信頼もつくられるようになる」(p.66)。解放とは、被抑圧者が抑圧者になることではないことを、根気強く述べています。そして、それらを行うツールは対話であることも。

 様々な社会の矛盾が集約している福祉現場や、それを伝える教育現場に身を置いていくことは、周囲の人達の抑圧からの解放を手助けすることに留まらず、自らの内面化された抑圧的思考・志向を見つめ続けることでもあります。1年のブランクを経て再び学生達と出会った私にとって、どのような立ち位置でどう学生に相対していくのかを問うている最中だったため、この本を再読して良かったなぁと思いました。
 なお、以前、訳者の三砂ちづるさんが書いた『オニババ化する女たち』(光文社、2004年)を読んで、氏に対するネガティブな印象が強かったのですが、今回はとてもわかりやすい翻訳で、印象が変わったことを付け加えておきます。

 

目次

序章

第1章 「被抑圧者の教育学」を書いた理由(
 抑圧する者とされる者との間の矛盾―それを乗り越えるということ
 明らかな抑圧状況と抑圧者について
 明らかな抑圧状況と被抑圧者について
 誰も他人を自由にしない、誰も一人では自由にはなれない―人間は交わりのうちにしか自由になれない、ということについて

第2章 抑圧のツールとしての“銀行型”教育
 問題解決型の概念と自由と解放のための教育
 「銀行型教育」の概念、そして教える者と教えられる者との矛盾について
 人間は世界の媒介者となることによって初めてみずからを教育する
 未確定な存在としての人間、未確定な存在の意識、より人間らしくありたいという終わりのない探求への活動について

第3章 対話性について―自由の実践としての教育の本質
 対話的教育と対話
 プログラムの内容の探求から始まる対話について
 生成テーマ、そしてその教育プログラムの内容について
 生成テーマの探索とその方法論
 生成テーマ探索の意識化の重要性とテーマ探索時について

第4章 反‐対話の理論
 反‐対話的な行動の理論とその特徴について―征服、抑圧維持のためのわかち合い、大衆操作と文化的浸潤について
 対話的行動の理論とその特徴―協働、団結、文化的文脈の組織化)





横田恵子編『解放のソーシャルワーク』、世界思想社、2007年


内容
 
 なんとダイレクトなネーミング。買った時はそう思いました。けれど、なぜか読み進めるのが怖くて、ずっとずっと気になりながらも本棚に眠ったままの本でした。でも『被抑圧者の教育学』を読んだからには、やはり本命のソーシャルワークについても読まなければなるまいと、読んでみました。
 この本は、「抑圧された人々の解放」という意味だけでなく、「ソーシャルワーク援助実践から自由になりたい」という「シャウト」である(まえがき)ことが宣言されています。多様な著者がそれぞれの立場から「解放のソーシャルワーク」に接近しており、理解しやすい部分と、私の読書力では理解しにくい部分が共存していました。
 そのなかでも興味深かったのは、これまであまり日本では紹介されてこなかった、オーストラリアにおけるクリティカル・ソーシャルワークに関する論考です。「オーストラリアのソーシャルワーク理論の独自性は、『西欧社会から学ぶ』ことに違和感を持ち、社会情勢にも対抗原理を失いかけていた研究者および実践者のニーズに応える形で、理論教育にも大きく影響されるようになっていったと理解することができる」(p.95,舟木伸介)。「クリティカル・ソーシャルワーカーは、批判的社会理論、暗黙知、批判的省察の実践、社会正義の価値、消費者の視点に立つ知識を含有する『批判的知識の理解に基づいた実践』の基盤を発展させることが可能である」(p.146.Bob Pease著、舟木抄訳)。
 この理論について、まだまだ掘り下げれば沢山の宝が埋まっている予感がするので、今後の学習課題にしましょう。そしてこれからは、食わず嫌いや恐れから読むのを避けるのではなく、何でも意欲的に読んでいくことが大切だと少し反省しました…。


目次

第1章 ソーシャルワーク実践における援助技術教育―普遍的モデルの多元的再検討

第2章 解放のソーシャルワーク

第3章 オーストラリアのソーシャルワーク専門教育―クリティカル・ソーシャルワーク理論の構築

第4章 Critical Social Work Theory Meets Evidence‐Based Practice in Australia

第5章 クリティカル・ソーシャルワーク試論―細部に変革のちからが宿るという視点から

第6章 クリティカル・ソーシャルワーク実践論―ミクロレベルに宿る変革のちからの生成モデル



阿部真大著『居場所の社会学〜生きづらさを超えて〜』、日本経済新聞出版社、2011年


内容

 「この本が抑圧からの解放?」と思われるかもしれませんが、極めて現代的かつ現実的な、大学生を含む日本の若者の解放を謳った1冊だと思います。この本の主題は「居場所づくり」であり、筆者は「居場所づくりの実践は、社会的に排除された人々を再び社会のなかに戻していく『社会的包摂』の実践である」(p.4)としています。福祉領域でも「社会的包摂」という用語が数年前から取り沙汰されるようになっているところです。
 阿部さんは、最終的には徹底的に他者とぶつかりあう居場所づくりと、徹底的に他者とぶつかりあわない居場所づくりをつくっていく際の、ふたつの方向性の提示を試みています。そのなかで面白いのは、氏自身の実体験から導き出した居場所に関する4つの命題です。@誰かと一緒にいるからといって、居場所があるわけではない。Aひとりでいることはスティグマ化することもある。B居場所の拡張は間違うこともある。C過剰適応はよくない。読みながら、「そんなことあったな〜」と自分の中学生や高校生時代を思い出しました。
 そして彼なりの結論の一つは、職場と家庭以外の第三の居場所をつくることです。「大事なのは、『第三の居場所づくり』は、ポスト『日本型社会』を生きる私たちすべてに求められる生活知であるということ、そしてそれは、過去のアウトサイダー(オルト・エリート)たちに学ぶことが多いということです」(p.114)。阿部さんの本は、溜飲が下がる場合ばかりではないのですが(この本ももう一歩掘り下げてほしいかな…)、目につくとつい買ってしまう不思議な魅力がありますね。
 学生達が自分なりの居場所づくりができるよう、少しでも力になれればと思いながら、ゼミでの応用ができないか思案しながら読みました。
 

目次

T 職場と居場所
第1章 ぶつかり合う居場所―リタイア男性とコミュニティケア
第2章 ひとりの居場所―高齢フリーターとバイト先
補論@ 家族と居場所―「家族からの自由」から「家族への自由」へ
補論A 恋愛と居場所―地獄の男女関係から逃れるために
 
U 社会と居場所
第3章 第三の居場所―若者と仲間
補論B 『反撃カルチャー』(雨宮処凛著)書評
第4章 臨界点の居場所―シューカツに失敗した大学生と社会
補論C 『日常人類学宣言!』(松田素二著)書評

V ジモトと居場所
第5章 ヤンキーの居場所―逸脱集団と地域社会
特別収録  企業社会vsJポップの30年―阿部真大インタビュー
        ポスト3・11の居場所論



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