幸せな春の海〜静岡でのひととき〜 本文へジャンプ
今回は幸せな思い出です。


 私たちは、ひたすら海をめざして歩いていました。まだ見ぬ静岡の海を。
 その頃私は、替わってから半年以上経つ職場になじめず、かなりのストレスを感じていました。仕事に行き、同じ職場の上司と顔を会わせるのが苦痛で、すぐにも逃げ出したい衝動に駆られていました。
 毎日毎日残業続きの職場にいた私の頭の片隅では、「このままこの職場にいると自分は駄目になる」という警鐘が、常に鳴り響いていたのです。

 そんな折、待ちに待った静岡への旅行の日が来ました。彼女と私は七夕のように1年に1回会う程度でしたが、その日は久しぶりに行ったことのない静岡で会おうということになりました。
 駅から海までの道が長いことに二人とも気づかずに、登呂遺跡やうなぎ屋に寄りながらも、とにかく歩きました。春の小川が流れる方向に向かって。

 そして辿り着いた静岡の海は、穏やかでした。日差しは優しく、海は水色で、砂浜には誰もいません。私たちは何十分もそこに佇んでいました。言葉を交わすことはなく、ただ互いに海を見ていました。私の置かれている状況を十分すぎるほどわかっていた彼女は、私にかける言葉はないと思ったのかもしれません。
 私にはその空間が心地よく、氷のような心が広々とした海のように開放されていくのがわかりました。
 翌日、私たちは新幹線の東と西のプラットフォームで別れ、また互いの日常生活に帰っていきました。またいつか会える日を願って。
 そして1年後に、私はその職場を辞めることになったのです。半分は次の仕事への期待を抱いて、もう半分は逃げだしたという後ろめたさをまとって。

 今でも、人生で「幸せな時はいつ?」と聞かれたら、迷わず静岡の海を見に行ったことを挙げるでしょう。
 穏やかな静岡の海は、疲れきった私にとって暖かさと滋養に満ちた海でした。
 


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