潮の香りのする街で 本文へジャンプ
今回は私が住む街の話です。


 
 あんなに好きだった海に行かなくなったのは、まぎれもなく2011年3月11日の影響があります。あの日、海が奪っていった2万人近い人々のことを考えると、無邪気に「海が好き」と言えなくなってしまいました。
 震災直後は、故郷に帰る海沿いを走る列車に乗っていても、いつ津波が襲ってくるかと不安な気持ちになるのでした。来月でようやく1年半が経ち、被災により自分自身が受けたダメージからも解放されつつあります。そして、映像で海を見ても恐怖心を抱かなくなってきました。

 そんな私ですが、潮の香りを嗅ぐととても安心して、なぜか郷愁を覚えるのです。もともと、いつかは海の近くで住みたいと願っていたのですが、内陸にある職場の都合でその夢は未だ果たせずにきました。
 そんななか墨田区に住んでいたある夜、道を歩いていたら、そこはかとなく潮の香りがするのです。その日は海岸の花火大会で、浴衣を着た若者達が沢山帰ってきていたので、「きっと、あの子達が海の香りを運んできたんだな」と思っていました。
 ところが、また別の日にも潮の香りがしたのです。たしか海までは10q以上離れていたはずなのに。
 そんなことが何度かあった後に、私は台東区へ引っ越しました。台東区に来てから、海のことなど思い出さないまま10ヶ月が経った昨日の夕暮、ふと懐かしい香りがしました。潮の香りです。蒸し暑い日が暮れかけて、ようやく涼しい風が吹いてきた頃、風は海の香りを運んできてくれました。
 「ああ、この街も潮の香りがするんだ」と思いました。永住するかどうかはわからないけれど、この地に家をもった私にとって、長くつきあう街になることは間違いありません。その街でも潮の香りがすることに、深い安堵感を覚えました。

 震災以降、以前にも増して一つ一つの出来事を積み重ね、刻み込むように行い、生きていくことを心がけるようになりました。私もいつ何時、どうなるかわからないから後悔しないようにしようという決意は、ここにきてなおさら強くなりました。だから、時々潮の香りのするこの街で、丁寧に暮らしていこうと思います。

 海は安らぎをくれるけれども、時として凶器にもなる。そんなわかりきったことに、今まで気づかないふりをしてきたのかもしれません。そんな海への気持ちは、ただ好きというだけでは片づけられず、以前より自分のなかで複雑に入り交じっています。
 こんど海に行くときは、黙祷を捧げましょう。いつになるかわからないけれど、必ずまた海に行き、きちんと向きあわなければと思っています。
                                                (2012/8/19)


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