2012年7月・8月の3冊+1冊 本文へジャンプ
夏休みの今回は、カルチャー&サブカルチャー…頭の中は文化で一杯!!


 六車由美著『驚きの介護民俗学』、医学書院、2012年


内容

 4月からの職場復帰で、毎日疲れがとれない生活が続くなかで、食指が動いたのが「文化」に関する本でした。深刻な本よりも、読んでいて楽しい本を好んだためだと思います。
 そのため、今回は色々な面から「文化」を語る本を紹介します。

 まずは文化の王道を示したこの本です。もともと民俗学者で大学の准教授を行っていた六車さんは、日本民族学会研究奨励賞やサントリー学芸賞も受賞した強者です。ところが、雑事に追われる大学を辞め老人ホームの介護職員として働き始めて、すでに3年が経過しています。そのなかで、利用者達から子どもや青年の頃の民俗事象について聞き書きをするようになりました。筆者はそれを「介護民俗学」と命名しています。筆者による定義は「民俗研究者が介護の現場に身を置いたときに見えてくるものは何か、そして民俗学は介護の現場で何ができるのかを考えていくために私が掲げた名称」(p.20)ということです。

 興味深かったのは、相談援助の聴き方や回想法のやり方と、介護民俗学の聞き取りの仕方を対比して書いている部分です。例えば、相談援助で言われる傾聴について「言葉を聞くという技法は介護や福祉の世界で本当に定着しているのだろうか」「『利用者の気持ち、思い、心の動き』はそう簡単に察することができるのだろうか。そもそも、利用者はそうした『隠された気持ち』を深読みしてほしいのだろうか…」(p.97-98)と、我々が日常的に教えていることについて疑問を呈します。また、回想法については「実施中にメモをとることを極力避けるべきだとされていることへの疑問」等を呈しています。『そうか、立場が違うとこんなふうに見えるのだな』と、かえって新鮮な指摘に感じました。
 さらに、六車さんが利用者と協働して『思い出の記』をつくっていることにも、共感を覚えました。
 そういえば、民俗学者でない私も老人ホームで働いていた際には、利用者の智恵や経験の宝庫であることを感じたことがあります。そのためこの本を読んで、もっともっと「介護民俗学」の視点が広まればいいなと思いました。

 

目次

はじめに

第一章 老人ホームは民俗学の宝庫
 「テーマなき聞き書き」の喜び
 老人ホームで出会った「忘れられた日本人」
 女の生き方

第二章 カラダの記憶
 身体に刻み込まれた記憶
 トイレ介助が面白い

第三章 民俗学が認知症と出会う
 とことんつきあい、とことん記録する
 散りばめられた言葉を紡ぐ
 同じ問いの繰り返し
 幻覚と昔話

第四章 語りの森へ
 「回想法ではない」と言わなければいけない訳
 人生のターミナルケアとしての聞き書き
 生きた証を継承する−『思い出の記』
 喪失の語り−そして私も語りの樹海〈うみ〉に飲み込まれていく

終章 「驚けない」現実と「驚き続ける」ことの意味
 驚き続けること
 驚きは利用者と対等に向き合うための始まりだ

おわりに




成実弘至編『コスプレする社会〜サブカルチャーの身体文化〜』、せりか書房、2009年


内容
 
 一時期、なぜか無性に猫のようになりたいと願った時期があり、研究室にいる時には猫耳をつけて仕事をしていたことがありました。この自分のコスプレ(変身)願望は一体どこからくるのか、常々不思議だったのですが、地方に行ったときにこの本を見つけて買ってみました。この本のタイトルにはコスプレとありますが、サブカルチャーとファッションをテーマにした研究会の成果をまとめた研究書です。執筆者の多くは社会学者ですが、なかには服飾文化論や文化人類学、政治学を専攻している人もいます。
 冒頭の私の問いに答えている部分をこの本から見出すとすれば、以下の部分でしょうか。「仮装は変装や偽装とは異なる。変装/偽装は自分の本性を隠しつつ、自分でないものに見せかけ、社会にまぎれてしまう。しかし仮装は着る者の表現行為であり、アイデンティティと戯れながら、他者との差異や優劣を吟味する。仮装の目的の一つは他者になることで自分になることなのだ」(p.16)。でもまあ理由はともかく、猫になりたかったとしか言いようがありませんでした。
 さて翻って本書に戻ると、先日、演習で「公務員が入れ墨を行うのは是か非か」というディベートを行ったため、第5章「秘める刺青、見せるタトゥー」、第6章「文身とタトゥー」も興味深く読みました。日本では嫌煙されがちなタトゥーですが、驚いたことに台湾やアメリカでは、タトゥースタジオでの彫師と来店客が織りなす人間模様と施術の過程をドラマ化した番組が人気を博している、とのこと(p.157)。また、文身(皮膚に傷を入れて色素などを注入し、文様や文字を定着させる身体加工法)は、世界各地に残る習慣であり、「持って生まれた身体に後から積極的に介入し、何らかの人為的なカスタムを加えることによって、人類は自然としての常態から自らを決別させ、未開の動物や他者と文化的な自らを線引きしようとしてきた」(p.174)可能性がある点。さらに、有効な治療法が無い時代の「きわめて厳しい環境を生き延びるために人はわざとみずからの身体を傷つけ」「時には故意に治癒を長引かせるような工夫をするプロセスから、肉体は免疫と対抗を獲得する。生命力と忍耐力を鍛え、またその強度を示すサバイバルの身体技法が、入墨などの加工にはあった」(p.176)事実を知りました。
 まだまだ文化の奥深さを理解するには、知識が浅い自分に気がついたのでした。


目次

序 仮装するアイデンティティ
第1章 コスプレという文化
第2章 ヴィジュアル系コスプレ
第3章 変容する女装文化
第4章 ドラァグクイーンというあり方
第5章 秘める刺青、見せるタトゥー
第6章 文身とタトゥー
第7章 朝鮮学校の制服文化
第8章 不良スタイル興亡史
第9章 ストリートスタイルを読む




斎藤環著『世界が土曜の夜の夢なら〜ヤンキーと精神分析〜』、角川書店、2012年


内容
 
 コスプレの次はヤンキーです。なぜかたまたま斎藤さんの本が書店で目につき、買ってみました。斎藤環さんといえば、ひきこもりについての発言を行っている精神科医であり、それに関する本を読んだことはあります。が、こんなサブカルチャーにも造形が深かったなんて、知らなかった私は勉強不足でした。
 なぜヤンキーなのか。斎藤さんの問題意識は以下の部分に表れています。「僕はこの本で、『美学としての「ヤンキー」』について語ろうと考えている。ただしそれは、さしあたり『ヤンキー的なイメージ』に限定されるだろう。」「僕が問題にしたいのは、なにゆえ不良文化にルーツを持つであろうヤンキーの美学が、かくも世間一般にまで広く浸透するに至ったか、ということだ」(p.7)。一説によると、「日本の総人口の三分の一が『銀蠅的(筆者注=ヤンキー的)なものに対してひかれがち』である」(p.14)としています。
 日本におけるヤンキー文化について、服装や持ち物などのアイテム、ギャル文化との違い、芸能界との関係、漫画との関わり等々から論ずるなかで、特に印象に残ったのがヤンキー文化と「女性性」の関係です
知人の赤坂真理さんによれば「ヤンキーは女性的」であり、斎藤さんはその論に同意しています。その理由は「ヤンキーたちはとにかく『関係性』を大切にする。上下関係のみならず、異性との関係や、とりわけ家族を大切にする傾向がある。こうした関係性への配慮が、彼らを女性的に見せる」(p.108)のだそうです。その根拠は、以前から斎藤さんが主張している、男性の欲望は「所有原理」であり、女性の欲望は「関係原理」だからです。
 私自身はヤンキー文化に惹かれない三分の二に入っていると思うのですが、この本を読んで新たな視点で世の中を見てみると、見えないものが見えてくる面白さを感じられそうです。


 

目次

第1章 なぜ「ヤンキー」か
第2章 アゲと気合
第3章 シャレとマジのリアリズム
第4章 相田みつをとジャニヲタ
第5章 バッドテイストと白洲次郎
第6章 女性性と母なるアメリカ
第7章 ヤンキー先生と「逃げない夢」
第8章 「金八」問題とひきこもり支援
第9章 野郎どもは母性に帰る
第10章 土下座とポエム
第11章 特攻服と古事記




 中川大地著『東京スカイツリー論』、光文社新書、2012年


内容
 
 前回、「東京スカイツリー開業記念」を行った後も、私のなかでスカイツリーへの情熱は細く長く続いているため、引き続き掘り出し物のこの本を紹介します。
 文筆家であり編集者である中川さんは、墨田区向島出身、つまりスカイツリーのお膝元で生まれ育ったわけです。そんな彼が「3・11」に帰宅難民になった際に、完成間近のスカイツリーに導かれて向島の生家に帰り着いた体験より、「震災の日をピークとする経緯の中で、筆者が東京スカイツリーを媒介とすることで確信に至った、これからの日本の社会像とは何か。本書はその描像を、多角的に検討する中で明らかにしようと試み」(p.26)たものです。

 まずこの本を手にした時に、新書でありながら361ページというページ数の多さに驚き、「スカイツリーだけでそんなにもっていけるのか?」と、正直なところ訝しみました。しかし読んでみると、この中川氏の筆力はただものではない!!文章表現が巧みであり、けっこうな長文でも首尾一貫しているのです。そのうえ、なかなかの博識ぶり。暇つぶしで新書はよく読むのですが、これほど時間がかかる内容が詰まった新書も珍しいくらいです。
 筆者の問題意識は、モダンとポスト・モダンを止揚した存在としてスカイツリーは位置づくことができるのか、ということでした。すなわち、「これまでの近代確立期のように主に欧米諸国をモデルとしたトップダウン的な社会目標(「大きな物語」)に依拠するのではなく、個々の現場における価値観(「小さな物語」)の合意をボトムアップ的に積み上げ、新しい共同性や公共性をいかに構築していくか。結局のところ、一発逆転の革命的カタルシスとは縁遠い、地道な問題解決の努力を重ね書きしていくしかないという、近代成熟期ゆえの課題の本質は、震災以前と以後とでなんら変わることはない。ただ、震災の日のスカイツリーが教えてくれたのは、それまで相互に無関係だったり、相容れないと思われていたものが、新たなかたちで接合し、調和していけるという可能性だ。旧世代と新世代、伝統と現代性、リアルな地理とネット環境、グローバリズムとローカリズム、マスメディアとソーシャルメディア、集中統制的なものと自律分散的なもの……」(p.28)。
 そして、これらを300ページをかけて検証した後に、このような形で閉めるのです。「世界一の自立式タワーなどという称号は、結局のところいささかの権威性も持ちえない。東京という巨大都市に暮らす人々が、それぞれの等身大の「小さな物語」を託していって最小限のかたちに圧縮すれば、それは600メートル程度にはなるだろう、というだけの話である。ただ、結果としてできた形象物には、太古から未来に通ずる普遍の構造があった。他者とも歴史とも分断され何もかもを失い、凋落していくばかりかとも思えた日本人が、自分たちが積み重ねてきたもの以外の何の手本もなしに、まったく新しい世界像を展望できるほどのポテンシャルを示してみせたのだ。これが希望でなくて、何であろうか」(p.355-356)。
 私は、ここにきて完全にノックアウトされました。なぜなら現代において、『ALWAYS 三丁目の夕日」
』の世界とは確実に違う匂いや空気感をスカイツリーに感じていて、密かに私の小さな物語を託していながらも、それを言語化できなかった自分のモヤモヤを見事に文章化してくれたからです。東京の「東」もなかなか捨てたもんじゃないと、住民に希望を与えてくれる1冊です。
 

目次

序章 坂の上のスカイツリー
第1章 インフラ編/東京スカイツリーに背負わされたもの
 1‐1 日本のインフラ政策の大転換
 1‐2 東京スカイツリーの誘致プロセスとその仕様
 1‐3 スカイツリーが担う「放送と通信の融合」
 1‐4 スカイツリーの機能にみる日本社会の限界と希望

第2章 タワー編/世界タワー史のなかのスカイツリー
 2‐1「始祖」としてのエッフェル塔
 2‐2 浅草十二階と通天閣が担った「日本近代」
 2‐3 東京タワーの「昭和」と「平成」
 2‐4 「世界一」のタワーの変遷とグローバリズム
 2‐5 東京スカイツリーはいかなる〈タワー的公共性〉を確立すべきか

第3章 タウン編/都市と日本史を駆動する「Rising East」
 3‐1 浅草・日本橋――江戸に受け継がれた史的地層
 3‐2 銀座・九段坂上――近代建設期における帝都のコスモロジー変動
 3‐3 新宿・渋谷――昭和に穿たれた葛藤軸
 3‐4 秋葉原・お台場――「趣都」と「ファスト風土」への二極化
 3‐5 〈ショッピングモール的公共性〉は東を再興しうるか

第4章 コミュニケーション編/地元ムーブメントはいかにスカイツリーを拡張したか
 4‐1 建設開始までの住民たちのコミット運動(2005~2007年)
 4‐2 スカイツリーウォッチャーたちの祝祭(2007~2010年)
 4‐3 祭の終わりと街のこれから(2011~2012年)

第5章 ビジョン編/スカイツリーから構想する〈拡張近代〉の暁
 5‐1 東京スカイツリーがもたらす「建築の大転換」
 5‐2 〈拡張近代〉型都市へのビジョン 「天空の巨木」から「拡張された森林」へ




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