高齢者福祉研究会事務局〜社会性が低い大学院生だった頃 本文へジャンプ
今思い出しても恥ずかしい、社会性が低い大学院生の頃の思い出です。


 私が本格的に社会的活動に携わったのは、大学院修士課程に入学してからでした。学部の時から、大学院では認知症高齢者の家族介護について研究をしようと思っていた私は、高齢者福祉の研究に興味があり、全国老人福祉問題研究会の発行する『ゆたかなくらし』を愛読していました。そして何も知らないのに、将来の就職先は老人問題研究所か東京都老人総合研究所(現東京都健康長寿医療センター研究所)のような研究所だと心に決めていました。

 そんな私が大学卒業後そのまま大学院に入学し、高齢者の研究を本格的に始めた時、今は亡き長宏先生と児島美都子先生にお声をかけていただき、愛知県老人問題研究会(後に愛知県高齢者福祉研究会に改称)の事務局を行うことになりました。
 事務作業の主なものはニュース作成・発送です。いつも長・児島先生宅に集まり、手作業でニュースを折って封入したり、切手を貼ったりしていました。そんな事務作業を行った初日に、作業後に児島先生手作りの美味しい御飯を食べさせていただき、これは素敵な仕事だと思いました。
 そして2回目も児島先生宅で作業を行ったのですが、その時はお食事は出されなかったので「今日はお食事は出ないのですか」と聞いたら、周りの人に怪訝な顔をされました。そこにいた先輩からは「この研究会は手弁当で行っているので、毎回食事を出せる余裕はないんだよ」と言われて、初めて「手弁当」という言葉を知りました。その時、 『そうか、初回は先生の厚意でお食事を出していただいただけなんだ。権利のように思ってはいけないんだ』と思いました。今思っても、社会性が低いとはこのことだと恥ずかしくなります。

 その後、その研究会の事務局活動と長先生・児島先生からいただいたものは、それはそれは大きなものでした。毎回研究会に参加するのと事務局の仕事を通して、権利としての社会福祉・社会保障の考え方、全国老人問題研究会の愛知県版ではありましたが、名前を高齢者福祉研究会(高福研・こうふくけん)に変えたことによるプラス面から高齢者福祉を捉える視点、尊敬する教員像を身近で見せてもらえたこと、初の就職につながるネットワークが得られたこと等々です。
ただ、途中でアクシデントに巻き込まれ、研究会に出られなくなってしまったのは残念なことでした。
 その後、20代後半に上京することが決まった時、長先生と児島先生に会いに行きました。研究会に出られなくなったお詫びとこれまでの御礼を言い、それぞれにハンカチを差し上げました。ちょうどその頃、阪神淡路大震災やオウム真理教事件が起こり多くの人が亡くなることがたて続いており、「会える時に会っておかないとね」と話していたことを覚えています。そしてそれが、本当に長先生のお顔を見た最後になってしまいました。。。
 そして15年以上が過ぎた頃、母校開催の学会シンポジウムで児島先生が登壇された際、私が差し上げたハンカチを持ってきてくださいました。そのお気持ちがとても嬉しかったです。

 若い頃は社会性は低く、良くも悪くも怖いもの知らずでいつも元気いっぱい。初めて見ること聞くことばかりで、乾いた砂に水が吸い込むるようにぐんぐん吸収した時代でした。

 

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